(本当に「幸せには定義がない」のですか?(3)スズメバチの巣に手を突っ込む から続きます)
幸せというのは今感じるものなんですね。
それがおっしゃるとおりに、無常ですからね。だから常に精進するということは、欠かせない条件なんです。
ホッとすること、落ち着いたとか、腰を下ろしてはならんです。人は解脱に達するまで、腰を下ろしてはならんです。
やっぱりやるべきことはまだありますよ、と。そればっかし考えると苦しんだけど、ま、着々とやればいいでしょう。なにも一日でできるものじゃないんだから。寝るときに、「今日やった分はよかったよ」と思えたらいいでしょう。
「今日はよかったんだよ」という気分で寝られれば幸せです。
同じ調子で明日も、「ああ今日はよかったよ」と言えるようにすれば、このままずーっと余計なことを考えないほうがいいです。
明日はどうなるかわからない。
たとえば、事故にあっても、どうにか生き残ったら、「よかったねー」とか喜べますよ。そして、事故のときは自分も骨が折れていたけれど、横にいた人を何とかして助けた、となれば、大事故だけど大収穫もあるんですね。人の命を助けたことになれば。
そう考えれば、ひどい事故にあった日が、自分にとっては記念になる幸せな日なんです。
そういうわけで、わたしたちの見方・スタンス・アプローチ、それを正せば、そこに幸せがあるんです。
わたしもね、「今日はやりたくないんだ」という気分になったりしますけど、これはあんまりよくないんです。何かやった方がいい。
そこで、「今日は何もやることがないから慈悲の冥想をするぞ」とか精神を成長させるために何かやった方がいいとは思います。
だからわたしは、何もやりたくない日には、勉強するんです。
何か調べたり、わけもわからないのに科学ジャーナルを読んだり。世界で何が新しく発見されましたかとか、読んでいるんですね。最近よんだ新しい発見によると、惑星くらい大きいダイヤがどこかにあるんだと。あまりにも固くなっちゃってダイヤの状態になって、この宇宙にあると。
そういう本をすごく真剣に読んだりね。なぜかというと、いつかその話が説法の種になる場合もあります。(笑)
何にもやりたくない気分になった時は、何か勉強をすることにしています。
そのように毎日、何か充実感が沸き起こる人生に。
(本当に「幸せには定義がない」のですか?(5)アーナンダ尊者が「釈尊、寿命を延ばしてください」と言わなかったのはなぜか に続きます)
関西定例冥想会 2011.09.17
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1574082.htmlよりメモしました。
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