質問
「スマナサーラ長老は『幸せには定義がない』とおっしゃった。
震災後、国の政策として『幸福度』を掲げたりしています。自分はある時、何もしたくないし、何もほしくないときがあり、これが幸せか? と長老に質問したとき『それは単に悩みがないだけ』とおっしゃられました。人間の心はくるくる変わっていきますが……」
回答(スマナサーラ長老)
では、仏教の定義をします。これはアプローチしだいだから、(先の回答としては)*1
言わないことにしていたんだけど。
お釈迦様は、「涅槃は幸福と同義語である」と仰っています。
われわれは一時的に、その都度その都度、「これが幸せだ」と思うしかないんです。だから見方によって、それが幸せではないかもしれません。本当の幸せというのは、煩悩が全部なくなって、こころの苦しみが抜けた精神状態、解脱の境地が幸せです。
究極の幸福が涅槃であるならば、ほかの幸福は、いつでも条件付きの、仮の、一時的な幸せなんです。
たとえば禅定に入る人たちは、ものすごい幸せを感じますよ。お釈迦様はものすごく派手に説明してありますよ。
第一禅定に、第二禅定に入ったっても、その人の体で幸福を感じないところは一度もないんだよと。
たとえているのは、どろ団子なんですね。昔は石鹸の代わりにどろ団子を使っていました。このどろ団子の中で、水分がないところはどこにもない。そのように禅定に達した人の体の中で、幸福を感じないところは全くないんだと。
そこまで言っているんだけど、それが幸せではないんです。それも無常だよと。
やっぱりさらに進まなくちゃいけない。
最終的には、煩悩をすべてなくした状態、解脱の状態が幸福ということになります。
一時的には、無数に幸せがありますからね。
ご飯がなくておなかをすかせている人には、「では、ご飯を食べてください」とご飯をあげただけで、喜びを感じるでしょう。
どうせ無常ですが、その瞬間はしあわせです。
(本当に「幸せには定義がない」のですか?(2)なにもやる気がないとき
に続きます)
関西定例冥想会 2011.09.17
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1574082.htmlよりメモしました。
すべての「説法めも」を読むには:【目次】説法めも