ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

(1)指一本動かすことも自己責任

(この法話はスマナサーラ長老・関西定例冥想会 2011.10.02「指一本動かすことも自己責任」

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1577072.html よりメモしました)

 

日本で無差別殺人事件とか起こった場合は、容疑者が裁判で弁解するんですね。

弁解するときは、精神鑑定ですね。精神鑑定をして、自己責任能力はなかった、頭の中がおかしくて判断能力がなかったと、そういうことで刑を軽減してもらうか、何とか罰から逃げようとする。

 

それが一般社会の常識です。

もしかすると、子供のころから妄想ばっかりで、神の言葉が聞こえるんだとかいろいろ言っていて、「お告げがありました。だから犯罪をやりました」と容疑者が弁解する。それで調べてみると、前々から頭がおかしいということで刑が軽くなったりする。

 

また、ものすごく頭がおかしくなって、本物で、全く判断能力がなくて、親兄弟でも鬼だと思って殺してしまったりするような人は、もうしようがないという感じで閉じ込めておくしかないということになるでしょうね。

 

そこまでは世間の考えで、法律では無罪にする。

 

仏教の説明は何なのか?

ちょっと勉強してみましょう。

 

仏教のこころの学問からみると、各生命は自分の判断で行動しています。

自分で決めなきゃ何もできません。

呼吸することも自分の意思でやっています。これが自分の意志が弱くなって呼吸できなくなったら死ぬしかない。現代は機械で強引に酸素を送って、医者は患者が自分で呼吸を始めるように期待します。やりきれないんです。機械で呼吸させて生かしても、人が生きていられるのか? それはないんです。呼吸器は機能しなくても、栄養は本人が取らなければいけない。自分の脳が動いていないと、どうにもならない。 

そういうことで、生きること自体は自分の意志で生きているんです。

 

わたしには、人に手を上げさせることはできません。

しかし、わたしが「皆さん、一斉に手を上げましょう。せーの」と言えば、みんな手を上げるでしょう。それは表面的に、わたしがやらせたように見えるでしょう? それは表面だけ。各人が、わたしの号令に合わせようと思って、自分で手を上げたんです。

 

わたしの言葉を聞いて、各自で判断して「では手を上げます」ということにしたんです。

ですから、自己責任なんです。

 

そういうことで、よく理解しておいてください。

他人に何かやらせるということはあり得ないんです。わたしが誰かさんに人を殺せと言ったら、その人が本当に人を殺したとする。しかし、わたしが殺人罪を犯したわけではない。

 

頭がおかしくなって、妄想と幻覚で変な思考の人も、自分で判断してやったんです。自分で判断しないと、体を動かすことはできません。

それで理解してください。

指一本動かすことも、自己責任なんです。

判断能力=業(2)指一本動かすことも自己責任 - 瞑想してみる

に続きます)

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