(指一本動かすことも自己責任(1)から続きます)
わたしには、強引に人の手を取って上げさせることはできますよ。
しかし、その手を使って何かをするということは、結構難しんです。ときどき、小さな子が文字を書こうとするとなかなか書けません。そのときは大人が子供の手を取って、文字を書きます。子供の手を使って大人が書きます。しかし、そのときも子供が逆らったらどうなりますか? 手を固くしたり、反対の方向に手を持って行こうとすると、書けないんですよ。いくら力ずくで子供の手を動かそうと思っても、できません。
子どもが筋肉をリラックスさせて、書かせようとする大人の手の動きに合わせようとするんですね。それで書き方を子供が覚えます。
大人が書かせて言うように見えますが、本人が書くことに同意しています。
犯罪などの場合は、判断能力がなかったと言っても、誰が犯罪を犯しても判断能力はなかったんです。
長い間、丹念に計画を立てて犯行を実行した場合、精神鑑定で罪を逃れることはできないでしょ? しかし、その場合も判断能力はなかったんです。
われわれは、他人の破壊を考える場合、それは正しい判断とは言えません。すべての罪、嘘をつくこと、だますこと、不倫すること、遊びに更ける事、全部、判断能力があればやりませんよ。
子どもが隠れて学校を休んでゲームセンターに行っているのは、正しい判断ですかね?
判断能力は正しくないんだけど、本人が自分で判断してやっている。その場合は、その結果を引き受けなくちゃいけません。
だから仏教では、業から逃げられませんといいます。
業は行為です。本当の業は、判断能力なんです。意思です。やりたい、ということ。
それはいくらなんでも逃げられません。言い訳は成り立ちません。
「あの人に脅されたんだから・わたしの子供を誘拐されていたから、だからやったんだ」としても、自分で考えて自分で判断して行為を実行しました、ということでしょう。子どもを守るため、やったことが罪であるなら、それは結果を引き受けなくちゃいけません。
お釈迦様は、「たとえ子供のために、母のために、自分の命を守るために、それをやっても結果が来ます。悪行為には言い訳はなし」
これはちょっと残酷に聞こえますね。単純な因果法則の話なんです。
何かわれわれは原因を作ったら、結果が来るのはどうしようもありません。
何か石を一個とって、力いっぱい投げる、窓のほうへ。投げた時点で、原因を作りました。それで窓ガラスが割れてしまう。言い訳が成り立ちますかね? 言い訳しても、またガラスが元に戻りますか?
一旦原因を作ったら、結果が決まります。
原因と結果というのは一体で、どうにもならん。
こちらで行為すると、そちらの結果は自動的にあらわれています。
これは物理学的な話でありながら、心理学的な話でもありながら、因果法則なんです。
そういうわけで、わたしたちは、自分の行為に責任を持つべき……というより、責任を放棄できません。
必ずついてくるんだと。行為には結果がついてくる。
それを、怒りを込めてやった、となればなおさら罪は重いんです。
(罪の数え方(3)指一本動かすことも自己責任 に続きます)
スマナサーラ長老・関西定例冥想会 2011.10.02「指一本動かすことも自己責任」
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1577072.html よりメモしました。
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