初期仏教月例講演会 スマナサーラ長老 2018年9月9日の質疑応答部分よりメモしました。
質問
「殺生のことについて教えてください。
最近、羽蟻が室内の明かりに集まってくることがありました。そこで大家さんに連絡したら、大家さんは羽蟻駆除の業者に依頼しました。わたしはその業者をキャンセルして、大家さんに『殺生ということが気になります』とお話ししました。
大家さんは『家はわたしの財産なので、それを守るために蟻駆除をします』と言って来ました。
そこでわたしは迷いながらも『大家さんの財産についてはわたしの管轄外なので、ご判断にお任せします』と答えました。
これでよかったのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
あなたにはそれ以外何もできないでしょう。
我々がいくら頑張っても、生命が死んでいくことは避けられませんしね。各生命はそれぞれ殺されたり、死んだりするしね。手には負えないんですね。
ですから、意図的に殺意を持って、自分個人の責任で殺生することは徹底的にやめる。しかし自然の流れで起こる生命が死ぬことはどうにもならない。
だからあなたが「蟻を殺せ」と言ったならば、あなたの責任になる。「気持ち悪い、蟻がいて」とかね。
わたしはこういう気持ち(殺生したくない)と言って大家さんがそれを理解したならば、あなたはセーフですね。それから自分の財産を守ることによって、自分が地獄へ落ちるのはその人の仕事なんです。それはわたしたちにはどうすることもできない。
ですから、あなたのアプローチはそれで正しかったと思います。
質問者
「間接的な殺生は難しいテーマだと思いますが……」
スマナサーラ長老
仏教では意志が自分の業になります。
間接的かどうかではなく、自分の意思があるかどうかです。
間接的というのは、自分の手で殺生しなかっただけの話でしょう。
例えば、スーパーでチキンを買う場合、殺生したことになるというのは余計な話です。余計に妄想すると、我々が買うから鶏を殺しているんではないかと思うこともある。スーパーのチキンが売れ残ったら別の形で処分されるだけです。そこまでは個人で管理できないのだから余計なことです。わたしたちは自分で管理できる範囲で生活すればいいのです。
もし人にお金をあげて、「あいつを殴ってください」と依頼したら、自分が殴ったことになります。これが間接的ということです。これは自分の罪になります。
スーパーでチキンを買ったからと言って、その鶏を自分が殺したことにはなりません。何故ならば、それは自分の管理不可能な範囲で起こったことです。
これは大きな問題ではありません。
(終わり)
蚊帳