質問者
「たとえば、地獄の生命は苦しみを栄養にして生きています。天界の生命は喜びで生きています。
であるならば、聖者はどのような栄養で生きているのですか?」
回答(スマナサーラ長老)
それは、その車がガソリンかディーゼルかという話なんですね。
ガソリンではなくて水を入れたら車が壊れるでしょう。聖者は人間だから、人間と言う車に乗っているんですね。それで燃えるために必要な燃料を入れているだけ。
人間は中間的なところにいるんだから、人間もやっぱり、優しいこころ・慈しみのこころの栄養を入れると、体調がよくなって物事がスムーズに動くんですね。
明るくて、活発で。明るくて活発と言うのは、慈しみがあったほうが正しいんですね。ただの馬鹿げた明るさと言うのは意味がないんです。
逆でも栄養になるんです。
落ち込んだら落ち込みで生きている。鬱になったら鬱で生きているんです。いろんな苦労している人々は、苦労の刺激で生きているんです。
人間社会がそれは良くないと言っているのは、人間社会が苦しみを栄養にする車ではないんです。
だから、どんどん車が壊れていくんです。
だったら苦しみを栄養にするところに行きましょうとなっちゃうんです。入れる燃料が違っているんですね。それでも動いてはいるんですが、間違った燃料です。
たとえば、ガソリンを入れたんだけど、そのなかに金属や水の分子がいっぱい入っていた。
それでも燃えますよ。しかしエンジンの調子が悪くなる。さらに入れるとさらに調子が悪くなって、エンストになっちゃうんですね。
恨み・嫉妬を生きがいにしている人もいるでしょう。
そういう人々にいくら言ってもやめませんからね。妄想で精神的に病気になっている人々も、いくら言っても妄想をやめてくれませんね。あれが栄養になっているんです。人間社会に生きていられなくなって、その栄養が取れる生命へとドンドン生まれ変わって行ってしまいます。
喜び・明るさ・慈しみという善い栄養を入れていると、
長生きすることもできるし、寿命を全うすることもできるし、その生き方だからその栄養をより得られるところに生まれ変わってしまうんですね。
こちらで、慈しみで人を助けることができていて、喜びのためにもいろいろそれなりにやらなくちゃいけないんだから大変ですね。
それで次元が上がっちゃって天界になって、そこで純粋にその栄養をもらうことになっちゃう。
(続きます こころが栄養に依存する - 瞑想してみる)
目次1‐死・老い・病気/苦/不安感/無常・無我 - 瞑想してみる
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