前回
種を植えるときでも信が働いています。
芽が出るでしょうと。出ない場合もあります。
果物のタネを植えたら、おいしいイチゴを食べられるでしょう。「食べられるでしょう」なんです。本当に食べられるかどうかよくわかりません。イチゴが実っても虫に食べられる可能性もあります。
先が読めないということは事実だから、信がそこを補ってくれる。
会社で企画書を書く。先が読めないから、本来、企画書は書けないでしょう。企画書を書く人は過去のデータを参考にして企画書を書くんです。そこで信が働くんです。この通りにやればうまくいくかも、と。
企画書は実行してみなきゃわからない。それで信が入って来て動かしてくれる。だから信がなければ体が動かないんです。こころが動かないんです。動くにはいつでも、将来に関わること。
現在から次の瞬間に移動するんです。
次の瞬間はわからないけど、そこで、信が助けてくれる。
人間のこころから信という要素を取り除くことは不可能。
そこで、正しい信というのはデータを調べて、調べて、可能性をチェックして、行動する場合は確率の値をみる。
そういうふうにやらなくてはいかない。それが ākāravatī saddhā 根拠のある信 です。根拠ある信だから、これこそ真理だぞ、ということは言っていない。確率性。確率の値が高い方がありがたい。お釈迦様は、五分五分だったらやめなさい、となんのことなく言うんです。
警察が法律を守ってくれるという信は、五分五分じゃないでしょう。警察で法律を犯す人っていうのはものすごく少ないでしょう。警察のバッジを見せて人の金をだましちゃった、という人はものすごく少ないでしょう。たまにいるんだけど、なんでたまにいるかと言うと、確率は百パーセントじゃないんだから。
だから警察を信じるのは構いません。医者を信じるのは構いません。医者は人を殺していますよ。薬を間違って、治療を間違って。それがわからない場合もあります。だから医者を信じない? それはないんです。間違うのはまれなケースで、一般的に医者は患者のことを直そうとする確率が、おそらく九十八パーセント以上とか、高い方なんです。
とんでもなく恐ろしい医者もいないわけじゃないんだけど。
弁護士は九十八まで行かないかもしれませんけど、でも、人びとは信頼する。建物を作る場合は、いくらか有名な建築会社に頼むでしょう。始めたばっかりの会社だったら、よく調べる。仕事をするのは誰か、今までどんなことをしてきたのか、なんで会社を作ることにしたのかとか。
日本全国的に有名な会社の場合は、そこまで調べないでしょう。
そういうことで、われわれは確率性の高いものは信じることになっています。
これが五分五分だったら、ブッダの立場は「やめなさい」なんです。
(続きます
関連外部サイト:
パティパダー巻頭法話 No.201 (2011年11月)
「いったい幸福とはなんでしょうか?」
十、心に「信」があれば幸福です。
これは分からないことをなんでも無批判的に信じる信仰ではありません。仏教の信は、確信・納得という意味です。生きるとは何かと仏説から学んで、その教えをそのとおりであると納得できれば、「信が現れた」ということになります。ブッダの説かれた教えに納得したならば、人間にとってはそれこそ至上の幸福になるのです。罪を犯さない人間として生きることも、執着・しがらみなどに悩まない心を持つことも、解脱を目指して挑戦することも、「信」さえあればできるのです。