(前回
サンカーラとは - 十二因縁(8)から続く)
お化粧することはどうやっていやるの?
頭で考える。それから手を動かす。たまにしゃべったりもする。必要な場合は。誰かにお化粧してもらう場合は「こういうふうにしてください」と言ったりする。
結局はお化粧する場合も、頭で考える、言葉でしゃべる、身体で行動する、それに限っちゃうんです。
料理を作ってご飯を食べるときでも、同じ三つなんです。
だから、科学的に語る場合は、衝動とは身口意の行為としてあらわれる。
それが生活作用と言うことになるんです。
しかしすでにその生命は体を持っていますよ。
そこをお釈迦様は使わないで、一次元で語られているんです。
だから肉体の身体がないとき、無明があったという話ではないんです。
初めに無明という代物があって、そこから生活作用が生まれて、という論で考えちゃうと、キリスト教と同じくなっちゃうんです。
そんな原始人の思考じゃなくて、これは完成した人の、科学を完成した人の話ですからね。
お釈迦様はあえて一次元にしただけ。
ですから、他のファクターは暫定的にちょっと無いことにするんです。
身体があることも、ちょっとここではないことにして、無明をハイライトする。
無明だけ見たら、それから頑張りたい、生きていきたいというエネルギーが生まれるんだと。
無明と言っただけでは皆様にわからないから、それはお釈迦様が精密に語っているから無明しか入れていないんですね。
しかしお釈迦様ご自身で説明する場合は、無明といっても、そちらで渇愛がある。
渇愛というのは三つに分けていますからね、本当は。わたしは一個で言っちゃうんです。理解しやすくするために。
渇愛は三種類なんです。カーマタンハ―、バーワタンハ―、ヴィバータンハ―(kāmataṇhā, bhavataṇhā, vibhavataṇhā)と三種類。
この一個を切って二つにするんです。切っても捨てないで、混ぜて、生きていきたいと存在欲、死にたくないという恐怖感。もう一つあるんです。
目的がわからないし、どうでもいいやと、どうなってもいいやというやけっぱちの気持ち。それがあまり表に来ないんです。まずは頑張っちゃうんです。
どうでもいい、面倒くさい、と言って、より危険なことになる。
一貫して「わたしは生きていきたい」という人は、危険なことはしませんね。ちゃんと計画を立てて生きてみるんですね。
恐怖感で怯える人は、それなりに恐怖感を何とかするために計画を立てるんだけど。
どうなっても知ったことじゃない、どうでもいいや、といういい加減な気持ちになっちゃうと、すごく危険な生き方になる。
そういうわけで、存在欲は本当は三種類です。
渇愛の三番目はあるんだけど、ログインしていないんだから、そちらにね。
だから、今日の説明に使っていないんです。
(続きます
生きていきたいという根拠のない気持ちは、根拠のある感覚のせい - 十二因縁(10))
スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
参考外部サイト:【75】 渇愛〜とくに破壊欲に関して
この3本の糸が1本に編み上がったものを渇愛といいます。