(前回
トリオ - 十二因縁(7)から続く)
渇愛を取り上げたら、無明も壊れます。
恐怖感がなくなったら、これもまた全部なくなるんです。三つが一つで仕事をするんです。
これは精密な関係です。
水を持ってこいと言えばグラスで持ってくるでしょう。グラスなしに運べませんけど、精密な関係ではないんです。グラスでなくてもカップでも運べます。何もなくても手で運べますね。
だから絶対的関係ではないんです。
物質世界でそういう絶対的関係と言えばなんでしょうね。
ひとつ今思い出したのは、空気がなければ音は通りません。
空気がなければ、音は存在すらしない。
宇宙でどこかで爆発が起きたらものすごい音でしょうね。
しかし音は成り立たない、そちらに空気がないんだから。音があったら空気が成り立つんです。
それだったらエネルギーは、地球に届くかもしれませんし、地球が振動するかもしれません。
どこにも誰にでも、何か変な音が聞こえる可能性があります。
空気がなかったら音は通りませんが、だからと言って空気だけじゃないんですよ。
物質はどちらでも通りますからね、結局は。糸電話があるでしょう。糸を通ってきますからね、振動が。
無明、存在欲、恐怖感、この三つは、一つも取り上げることはできない。離れません。
三つなんですけど仕事として。しかし一つだけ仕事として離すことはできない。
それで、すごい無明と言うものがありまして、その中に渇愛(存在欲)、恐怖感がありまして。
そうなると、なんか余計にエネルギーが生まれてくる。生きていかなくちゃと。目的を知らない。でも生きていきたい。
あの生きていきたいというエネルギーが、サンカ―ラ(saṅkāra)と言うんです。
生活作用、と質問者の方は言いました。
なんかわかったようなわからないような言葉なんですけど、微妙に似ていて、でも似ているだけなんですね。生活作用、といったらね。
生活作用よりも、もうちょっと根本的で、衝動、なんですね。ハッキリしていないんです。
このハッキリしていない衝動が生まれる。
この衝動が、これから生まれるんです。ハッキリしている場合も、衝動、サンカーラ、行、というんです。
サンカーラは何かと言うと、思考したいという衝動、しゃべりたいという衝動、身体を動かしたいという衝動。
これは専門的な解説、仏教の。
われわれは俗世間では、ご飯食べたい、座りたい、寝たいな、とか。友達と遊びたいなとか、いろいろと具体化していくでしょう。
しかし、底辺にあるのは「何かしたい」という衝動です。
なんで何かしたいと思うのか。生きていきたいからです。
だから友達にメールを送りたい、と思っちゃう。
生活作用といえば、ムチャクチャたくさんあります。無限にあります。
メール送ること、ゲームをすること、すべて生活作用ですよ。ご飯食べることも寝ることも、着替えたりすることも。
そうすると無数にありますから。
お化粧すること、掃除洗濯、すべて生活作用なんですね。
だからそんな単語は優れた学者が使ってはあかん。
どうにもならなん単語を。定義不可能な単語を。だから「身口意」にしているんです。どう見てもあなたには仕事をするチャンネルは三つしかないんだと。
(続きます
スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
参考外部サイト:
今月は『形成(Sankhâra)の法則』という観点から、「死」にアプローチしてみます。この『形成の法則』とは何でしょうか? これは『あらゆるものはいくつかの要素の集合によって形成され、独立して存在する実体はない』という意味です。
まずSankhâra(サンカーラ)という言葉を分析してみましょう。
Sanの語は「互いに、同時に、まとめて」、khâの語は「構成する、組み立てる」という意味で、この2つの語を合わせると「同時に組み合わさって形成された」や「互いに集まって構成された」などという意味になります。(最終部より抜粋)