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初期仏教 月例講演会「承認欲求のトリセツ」 (1)谷中散策篇
スマナサーラ長老は、この夏の一か月間、スリランカのご自身のお寺で過ごされたそうです。
そこで長老が日本で話した説法を、現地のことばに換えて説法したそうですが、「全く認めてもらえなかった」と。
スリランカでの説法を日本語訳して話しても、同じ現象が起こるそうです。
そんなふうに、長老でさえ承認してもらえないことがあるのだ、というエピソードから今回の講演はスタートしました。
この記事の全文は長くなるので、結論から先に書いてしまうと、
「完全独立はあり得ないことです。
完全依存も危険です。
区別能力を駆使して他人に認められる生き方をしましょう。
善友(ブッダ)には完全に認められるように励みましょう。
解脱者だけが完全に独立しているのです。」
ということでした。
お時間がある方は「続きを読む」(点線以降)からお読みいただければ幸いです。
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承認欲求の起源は無始なる過去からであり、承認欲求からの脱出はつまり、輪廻からの脱出であるそうです。
そんな承認欲求というものがなぜあるのかというと、生命は群れの中で生活するので、先輩や周りに認めてもらう必要があるからといいます。ちなみに、化生有情(餓鬼・神々・梵天)もそれぞれの社会の決まりがあって、承認というくさびはやはりあるそうです。
人間は人間の社会で認められることで生活費を賄う。
そこで承認されるということは死活問題になります。だから他人が自分を認めてくれるなら、落ち着いていられる。
「では、皆さんは何人の人に認められていますか?」
と、思わずドキリとする質問を突きつけられました。
「もし、両親にしか認められていないなら、すごく暗い人間ということですよ。家族・友人・社会に認められて、何とか生きられる。地方・国・世間的に認められるならば、大人物です。つまり、承認されるということは、人の成長を測るバロメーターなんです」と。
ただ、認める側の社会は、自分にとって管理不可能。
自分自身だって自分のことを知り尽くしてはいない。
親は子供のことを分からない。
夫も妻もお互いに分からない。
誰だって、自分さえ、自分のことは分からないのだから、認められないことで泣くのはよしましょう、と長老からアドバイスがありました。
「わたしだって、一か月間、まるっきり認めてもらえなかった」と冗談交じりに、冒頭のスリランカでの出来事を再度おっしゃいました。
ダンマパダ228
Na cāhu na ca bhavissati, na cetarahi vijjati;
Ekantaṃ nindito poso, ekantaṃ vā pasaṃsito.
(完全に非難される人も、完全に称賛される人も、過去にも未来にもいません)
これはお釈迦様でさえ、例外ではなかったそうです。
「それでもね」と長老。
「社会で暮らしているんだから、社会に認められるような生き方をしなくてはいけないんですよ」
「承認欲求」についてどんなものかわかったところで、今度は実践です。
承認欲求に対しての自己管理の仕方とは? 基本は、「こころを育てること」。
人は自信がないのは当たり前。無常の流れの中で、すべてが変わっていく中で、自信が生まれるはずがない。
そこで、具体的な対策は、「自信を確信に置き換えること」だそうです。
これはたとえば、出かけるときにカギを閉めたかどうか、自信がなければもう一度確認して、そして確信するようなことです。
ちょっと注意点は、「自分のすべてに承認の必要があるわけではない」ことだそうです。
たとえば、冥想すること、戒律を守ることをこの社会が認めるわけではないけれど、仕事や料理、勉強などは他人の承認が必要ですよ、と。
つまり、偽造した卒業証明書は無効でしょう、ということです。
大切なことは、「自分の義務を果たすこと」。
ある程度で認められたら十分ですよ、と長老。世界は不完全だから完全な人間を認めないということです。
「出る杭は打たれるんだから、ちょっと曲がって出たほうが打たれにくい」そうです。なるほど。
では、承認欲求の問題の解決策はズバリこれです。
「自分も他人を認めてあげること」
反対に、他人を見下すのが生命の本能なので、本能に逆らうのはなんでも難しいですが、ここを乗り越えないと承認欲求問題は動かしがたいようです。
じゃあ、どうやって他人を認めればいいのでしょうか?
1.ありのままに認める。
パーツごとに砕いて分析して、良いところと悪いところ、それぞれにコメントしていく方法があります。たとえば、子供が描いた絵だからと無条件に褒めないで、ここの部分はとてもよい、でもここはちょっとよくわからないな、などなど、認め方に工夫が必要です。
2.悪いことを言うときでも、その人の良いところを言わなくてはいけない。
「頑張ったね! でも結果はちょっとね……」とか。
3.批判と非難を区別して、批判のみを行う。
批判とはデータに基づいた指摘で、非難とは感情で悪くいうこと、とここではそのような定義でした。
4.人を慈しむ、認める性格を学ぶ。
これはやっぱり慈悲の冥想ですね。
わたしたちは誰からでも、動物からでも何か学ぶものがあるそうです。
つまり、 ①何をするべきか? ②何をすべきではないか ③どのようにすべきか? ④どのようにしてはいけないか の四つを、他の生命のあらゆる行動から学び取ることができるのだということです。
例えば、マザーテレサからは人を助けるべきだと学べるし、犯罪者からは罪を犯すことがいかに人生を狂わせるか学べます。
承認されたいと言っても、誰に認められるべきかといえば、それはその道のプロに認められるべきだそうです。
ただ忘れてはならないのは、プロであってもある特定の分野で秀でた人物であって、完璧な人間というわけではないこと。自分の師匠である大学の先生や、コーチなど、他人に全権委任するような、信仰する態度はとらないように気をつけることが肝心です。
ブッダは「理性のある人」に認められる生き方を推薦します、とスマナサーラ長老。
「理性ある人は毎回・毎日確認して賞賛する、智慧と道徳を備えた隙間のない生き方をする」(ダンマパダ229)
「純金のようなその人を誰が非難する? 梵天さえもその人のことを賞賛するのに。」(ダンマパダ230)
kalyânamitta 善友、という言葉を憶えて下さいね、と。
参考外部サイト:「善友は仏道の全て」
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi152.html…
善友とはブッダと阿羅漢たちのことで、善友に認められる生き方をすると解脱に達するまで人は成長するそうです。
最後に結論です。
「完全独立はあり得ないことです。
完全依存も危険です。
区別能力を駆使して他人に認められる生き方をしましょう。
善友(ブッダ)には完全に認められるように励みましょう。
解脱者だけが完全に独立しているのです。」
ふと、「犀の経典」の誤読についておもいだしました。
犀の経典でうたわれているのはあくまで阿羅漢の心境。そうではない人々が参考にできるものではない、という法話がいぜんありましたね。
thierrybuddhist.hatenablog.com
次回の月例講演会は、10月01日(土)『識(ヴィンニャーナ)の世界』 。
どんな展開になるのか、さっぱり予測できません……! 楽しみ。