<前回
こころの病み① - 束縛の多い世の中で自由に生きる(11)>
「こころの病み②(執着)」
最後に入ります。
執着があるから一切の束縛は成り立ちます。執着があったら、束縛が成り立つんです。
執着とは?
生きていきたい(存在欲)気持ちがあるから、すべての物事に執着する。あれがなければ、これがなければ、と。
依存することで生きられると思っている。
だからわかってください。生きるということは、依存なんです。
それなのに、「わたしは生きているんだぞ!」と。
さらに、「わたしは仏様だ、神様だ」というバカもいるんだから、これは相当危険人物です。自我があまりにも、程度を超えちゃっているんです。
その人々は、「わたしは金がなければ生きていけません、食べ物がなければ、家がなければ、……」あれやこれやとモノに執着する。
だから執着が生きることなんですよ。
眼耳鼻舌身意に依存しているんです、こころが。だから生きているというんです。
生きるとは、依存することですね。
生きることの定義は依存することです。だから自由はないんです。
存在欲があって、自由を期待することは矛盾です。
生きるとは依存であるならば、自由になりたいと思わないことです。
世界、要するに、色声香味触法です、世界というのは。それに執着する。
皆さんが思っている執着というのは、あまりにも無量・無制限・無数だからね。仏教はもっとまとめています。執着とは、色声香味触法に執着することです。金に、家に、執着するとかとは言わないんです。
自分というのは、色=体、受=感覚、想=思考、行=衝動、識=こころ、ですね。
それらに執着します。だから、世界に執着します、自分に執着します。執着は二つあります。
金に、家族に、ペットにと、執着の対象はキリがないから、仏教では、色声香味触法に執着すると言います。
ペットを見ると、それで喜びを感じる。触って喜びを感じる。ペットが鳴くとそれを聞いて喜びを感じる。それらをまとめて、ペットに執着していると言うんです。
金に執着するというのは勘違いで、誰も金に執着していないんです。
金があると、あれも買える、これも買える、そのことに執着しています。金で物事が買えなかったら、執着しません。
子供が遊ぶおもちゃのお金があるでしょう?
あの数字を見ると、一千万円のお札なんです。一千万円のお札は実際にはないんだけど、一番高額な本物のお札は一万円ですけど。
そのおもちゃのお札に執着する? 誰もしない。なんで? 何も買えませんから。
ということは金に執着するとは、その金であれもこれも買えるときなんですよ。だから結局は、色声香味触法に執着している。
たとえばコンサートに行こうとする。
チケットがすごく高い。金があったら、「大丈夫、買える」と行っちゃいますね。
だからコンサートに行きたい人は金を貯める。その人は金に執着していますかね? そうではなくて、コンサートに行きたい。
コンサートに行って、音楽を聴いて、耳で楽しみたい。
あるいは踊って、肉体をいじって、楽しみたい。
わたしたちは、舞台を見て目を楽しませる、聴いて耳を楽しませる、一緒に踊って肉体を楽しませる。これも金がなければできませんから。だから「金に執着する」と言ってはいるんですけど、科学的に分析すると、執着は。世界に対する執着とは、色声香味触法に執着するということです。
色(色声香味触法の色)の場合はね、本を買ったり読んだりするでしょう? 本は面白くもなんともないんです、ただの紙だから。でも読むと、色が刺激を受けて楽しくなってくる。だからマンガ本ばっかりなんです。
それなら「わたし」に執着するとは、五蘊がありますね、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)。
色とは肉体。受は感覚。想は概念・考えること。行は行動するエネルギー。識はこころですね。それに執着している。
真の自由とは執着がないことです。
物事をありのままに観る智慧が必要です。だから分析していますよ。色声香味触法と、五蘊(色受想行識)に執着している。
見るものは無常でしょう? 自分のものにならないでしょう。音は無常でなければ音じゃないでしょう。執着しても、無常だから執着が成り立たない。
だから、放っておくのがいい。
「わたし、わたし」と執着しても、ずーっと変化しているでしょう?
そこで一個一個観察して、放っておくということをするんですね。
人が期待してもしなくても、執着してもしなくても、地球は自転しますね。
「わたしが期待するから地球は自転する」とはありえません。
「わたしが執着しているから地球が自転する」というのもありえませんね。
一切の現象は因縁によって、生滅変化して流れます。
地球の自転どころではなくて、一切の現象は、因縁によって現れては消えて、現れては消えていく。自分ってそんなもんです。
だから、執着は成り立たないんです。
それに執着すること、管理しようとすることは、無知な行為です。
肉体は因果法則で成り立って、変化していく。管理不可能。だから執着が成り立たない。
地球の自転というたとえで憶えておいてください。
期待するとバカを見るだけ。地球が自転してほしいな、というのは放っておけ、そんなのはと。
肉体のこと、感覚のこと、考えることなどなどは、放っておけと。「わたしじゃありません」
無智な行為をして、終わらない苦難の原因を作っているんですね。
執着不可能なのに、無知なせいで執着する。
「わたしの金」という言葉があるでしょう。あれって変でしょ。あなたの金だったら役に立たんでしょう。自分で印刷したら、それは自分の金です。しかしそれが役に立つ?
なのになぜ「わたしの金」と言うんですかね? あの言葉は、無知じゃない?
財布の中の金がわたしのものじゃないからこそ、使えるでしょう。
金っていうのは、持っている人が買えるんですね。わたしが持っている千円札を誰かがパッと持って行ったら、その人がその千円札を使って物を買えるんです。
その千円札に「これはスマナサーラさんのです」とかは書かれていないんです。
だから「わたしの金」って成り立たない。
「わたしの体」も成り立たないんです。
「わたしの考え」も成り立たないんです。
「これはわたしの考えだ」と言っても、どんどん人の話していることは変わっちゃうでしょう。
だから最初からも「わたしの」というものはなかったんです。
相当勘違いしています。その勘違いに目覚めてもらうんです、仏教は。
初めから執着は「要らない錯覚」です。
皆様方は「こんな大事なものを捨てられるわけないでしょう」と思っているでしょう?
初めから成り立っていないんです。「わたしの金」と同じです。
わたしの金なら、本物のわたしの金なら、誰にも使うことができなくなってしまう。
自分にも役に立たなくなっちゃう。
「わたしのものはない」からこそ、役に立っている。わたしのものでないものには、執着しない。
(次回は最終回です)
束縛の多い世の中で自由に生きる~本当の自由とは~
スマナサーラ長老法話 2016.07.17
(https://www.youtube.com/watch?v=Q_r3KpWK_JY&feature=youtu.be(限定公開動画)を聞いて書きました)
参考外部サイト:
慈悲は無執着のこころです。見返りを求めないこころです。
どちらかというと、過去から今まで無数の生命のお陰で生きてきたことに恩返しのようなものです。
借りのお返しです。自分の業という借金の返済です。
汚れたこころで慈悲のことばをオウム返ししても、悪くはないのですが、又余計な期待をするのはいかがなものでしょうかと私が考えます。