質問「慈悲の冥想で唱える『幸せ』ってなんですか?」
回答(スマナサーラ長老)
幸せっていうのは、すごく不思議な、複雑な言葉で、仏教教義学的な説明をするしかないと思いますよ。
例えば金があったら幸せかとか、友達がいたら幸せかとか、そういうふうに、われわれはモノで幸せをはかる癖がある。いい仕事があるから幸せだ、子供たちがよく勉強しているから幸せだとか、何かのシナモノのお陰で幸せだと思いますけど、幸せと言うのは本当は「こころの状況」なんですよ。
よくみると、金がなくても結構幸せでいる人もいるし、金があっても不幸で苦しんでいる人もいるんですね。だから幸せっていうのはこころの状況なんですね。誰でも、常にこころ穏やかに生きていきたいんですよ。
ホームレスになっても、気持ちよく生きて生きたいんですね。いろいろあってホームレスになったけど、まぁ、気分はいいんだよと。気楽にいますよ、というこころの安らぎが幸せなんですね。
それは、モノが与えてくれるかどうかというのはわからないんです。仏教的に言うと、モノは幸せを与えてくれないんですよ。
たとえば、金にえらく執着している人々は、金が入ると「ああ、幸せだ!」と舞い上がりますけど、あれは幸せじゃないんです。ものすごい執着ですから、ちょっとその状況が変わっただけでひどく落ち込んだりする。
台風や津波で家が潰れるでしょう。「マイホームできた! 幸せだ!」と舞い上がっている人が、家が潰れちゃうと、どん底に落とされちゃうんですね。モノに依存して幸せだというのは、とんでもないことです。
幸せっていうのは、こういうことです。台風・津波が来る前は、仕事もして結構幸せでした。そこへ津波が来て、家も会社もみんな持っていかれた。それから避難所で生活しているけれど、そこでみんなと仲良くして気持ちよくいるんだよ、ということなんですね。
モノに依存する幸せっていうのは、とてつもなく危険なこと。モノに依存しない技を身につけることが、本当の幸せなんですね。これが誰でも期待する幸せなんですよ。
これは、動物にしても同じです。
野生の動物を飼ってエサをあげても、その動物が幸せかどうかもわからないし。あるいは、自分がずっと飼っていた動物を、野生に返したところで、生活できなくって大変です。
だから動物も、こころの安らぎが幸せです。
そういうことで、仏教から言えば、すべてものが無常であって、執着がよくないものであって、われわれは持っているものを毎日変化させていて、その中で幸せを探そう、ということじゃないんです。
われわれは、津波があってもなくても、経済状況が良くても悪くても、ニコニコと穏やかでいられるならば、それが一番幸せなんです。
そういうふうに、わたしは一応、最終的な言葉は「こころの充実感」ということにしているんです。
こころが充実していることが、本当の幸せなんですね。それが、すべての生命にあってほしい。
たとえば、金があったら幸せという定義があるとします。
そうなってくると、「生きとし生けるものが幸せでありますように」が成り立たないんですね。人間の中で、金というのは決まった量があって、一人の人に大量の金が入っちゃうと、そのほか多くの人たちには金がなくなってしまう。
ですから、虎がすごく幸せに生きていくと、鹿が大変困りますしね。
そういうふうに物質的なものじゃないんですね。
穏やかにいることは、誰でもできることです。わたしのこころが穏やかにいると、わたしの周りにいる人々がなんのことなく穏やかになってしまいます。
そこは限りなく増える幸せなんですね。それを願って、われわれは念じるんです。
慈悲の冥想の幸せは、こころの安らぎ、こころの充実感だと理解しておいてください。
関西定例冥想会 2011.09.17
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1574082.htmlよりメモしました。
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