ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

鋸の喩え - ブッダの教えを学ばなくてもよい人間になれるか?(2)

<前回 ブッダの教えを学ばなくてもよい人間になれるか?(1)

よいことを言う方は、「なんかお釈迦様の教えに似ているんだと、言っている言葉が」という場合がある。

 

それは、「お釈迦様の教えと似ている」ではなくて、「よいことは普遍的によいこと」なんです。

お釈迦様は関係ないんです。ただたまたま、お釈迦様がすべてまとめて説かれただけで、お釈迦様も自然の法則、生命の法則を教えただけなんです。世の中はこんなもんだよ、と。

 

ですから、本当によいことは、普遍的で時空関係なく、よいことなんですね。

そこを誰かが一つ二つポイントを言っていることはありえる。すべてまとめてはいませんが。お釈迦様と違うところはそこなんですね。完全に言いつくすことはブッダにしかできない。

 

一般人もよいことを発見する。しかし、自分の能力範囲で一部しか発見しません。全体的に発見することはできない。

 

われわれも一般の立派な方々の本を読んでみても、いくらかは勉強になるんですが、全体的に人格を完成するための勉強にはならないんですね。

 

ですから、たくさんの人々の話を参考にして学ばなくてはいけない。それでも不完全。

一人に導かれるよりは、五、六人に導かれる方がいいんですけど、百人のことばを学ぶならばよりいいんですけど、キリがない。いくらなんでも最終的には不完全ということになってきます。

 

そのなかでもたまたま、メインポイントを見つける人はいることはいます。

そこで、よいこと、正しい生き方、われわれが生きるべき道を宇宙法則で発見して説く人がいれば、当然、ブッダの教えに似てくる。

 

それはそんなに珍しいことではないんですね。

たとえばキリスト教でも、「人を恨むなよ」と言ったりする。そこで神を出したところで、おかしいことに、神は人をすごく恨んで憎むんですね。腹が立っていて、怒りと嫉妬の神なんですね。

 

怒りと嫉妬の神を作ったんだけど、イエズスの教えはそんなに悪いことではないんですね。納得いく、「なるほど。できることならやったほうがいい」ということばかりなんですね。

 

キリストの教えで思い出したのは、あるとき誰かがユダヤ教会で一生懸命お祈りしたりお布施をしたりしていた。そこへイエズスが来て、「あなたはそんなことより先にやることがあるでしょう。兄弟と喧嘩してきたでしょう。仲直りすることが先だ」と。

 

そこで言っているのは「ごまかしでは意味がない」ということです。

兄弟とハチャメチャ喧嘩して、怒り嫉妬憎しみで生きて来て、神の前ではいい顔をする。「神様ありがとうございます。寄付をします」とか。

 

兄弟、家族と仲良く生活できん人が、神の言うことなら聞きます、というのは意味がないんですね。

 

そういうふうに、イエズスのことばも一個一個見ると、なかなかいいことを言っています。

しかしイエズスが、なんで人間に苦しみがあるのか、なんで生まれたのかということはわからないんですね。本人にしてみても、不満だらけで不安だらけで、なんで自分がこんなことになっているのかと自分でもわからないんです。

 

だからいいことは言っているんだけど、無明っていうのはイエズス本人にもわからなかったと言えます。

 

そこで自分の不安を神の概念で何とか抑えるんですね。「わたしは神の息子だ」と。

「死んだら神のもとに行くんだから、人生の不平不満は我慢します」ということになっちゃって。それでもあんなに苦しく非難ばっかり受けて生活しなくてはいけないのか、とそちらに矛盾が出てくる。

 

だからいいことを言っても、完全には説かれていないところは問題ですね。

 

イエズスの一番よい言葉というのは「人を赦せ」と。

カトリック教会で言っているのは「赦しなさいよ」というものすごく強い言葉なんですね。それを実行してみれば、われわれの人生が穏やかで幸福になるんですね。

 

われわれの欠点は「人を赦せない」んですね。

派手に人の過ちを取り出して、「これが悪い」と。確かに悪いんですよ。しかし、許しなさいと。キリスト教のことばは、この一言でまとめられます。

 

そこは仏教と同じことを言っているんですね。

お釈迦様が出家に言っていることばは極端ですよ。ブッダの弟子として出家したならば、悪人が来て自分を逆立ちにして両足を鋸で切っても、怒るなよと。

 

怒るなよどころではなくて、「嫌な気持ちになるな」と。

パーリ語の経典では、その箇所はビックリして怖くなってくるくらいの厳しい言葉なんです。「そこで嫌な気持ちになるならば、わたしの教えを実行していないのだ」と。もう切り捨てるんですよ。

 

あれほど厳しく言うのは、「人を赦しなさい」と。極悪人に対してであろうとも、恨み憎しみを持つなよと。イエズスはそこまでは言っていません。

 

人間はいい加減でだらしなくて間違いを起こすんだけど、人間にとって究極の目標をつくってくれるんですね。

それを目指して頑張りなさいと。それで言い尽くしたことになります。

 

われわれのこころに「鋸の喩え」があるならば、いつだって安全です。

鋸の喩えとは有名な話でね。鋸の喩えを憶えておけば、日常の怒り嫉妬憎しみは、いくらでもその都度乗り越えて、立派な人間として生きることができます。

 

イエズスも同じことを言っているんだけど、完全かというと完全ではないんです。

なぜならば、なんで悪人を赦す必要があるのかというと答えがない。なんで全知全能の神が、いい加減でだらしなくて不完全で何一ついいところがないのか、という問題には答えがない。神の間違いを人間が直さなくてはいけなくなっているんですね。

 

神が作った人間がだらしない。そこで人間同士でまともな人間になろうとする。それは神に逆らうことでしょう? しかし神に逆らうことは罪です。そこらへんがすごく矛盾だらけになってくるでしょう?

 

だからと言って、イエズスが言っているポイントは正しい。

問題は、一度なんとなく言っていますけど、完全に語れない、ということですね。だからイエズスよりも立派なことを言っている人間はいくらでもいます。

 

わたしもくだらない小説とか結構読んだりするんだけど、小説自体はムチャクチャくだらないんだけど、中にときどきびっくりするほど立派な文章が入っているんです。妄想でストーリーを描いているんですが、われわれの生き方にアプローチするように書かれてはいるんですね。

 (続きます

善悪は普遍的 - ブッダの教えを学ばなくてもよい人間になれるか?(3)

 

 関西月例冥想会 2016.09.17

https://www.youtube.com/watch?v=--FnQrWEhhQ を聞いて書きました。

 

参考外部サイト:

怒りの無条件降伏~中部経典21「ノコギリのたとえ」講義~(Dhammacast) - Theravada Online ゴータミー精舎日記

今回のダンマキャストでは、以前協会からカセットテープで販売されていたスマナサーラ長老の経典解説を配信いたします。お釈迦さまが比丘たちに「怒りの克服」について迫真の喩え話で説法された中部経典21「ノコギリの喩え」(Kakacūpamasuttaṃ,鋸経)を取り上げます。この講義はのち2004年に『怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む』(日本テーラワーダ仏教協会)として単行本化されました。