sato caraṃ (サトー チャラン)とは、「サティを持って生きる」という意味だ、というのがスマナサーラ長老の解説でした。
さて、ここで問題です。
この日本語訳のなかで、サトー チャランに該当する箇所はどこでしょうか?
1066(1072)
師は言われた。
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに解き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執着を乗り越えよ。」
答え:
「よく気をつけて行い」が、サトー チャランにあたるところでした。
意外かもしれませんが、
「よく気をつけて行い」は、実のところ「サティを持って生きる」ということだったのです。
ですので、この偈の意味は、
「サティを持って生き、この世の執着を乗り越えよ」
なのです。
ここで隠し扉が「ギギ~~ッ……」と現れて、勇者は新たな冒険へと旅立つ……!(イメージ)
のでした。
それでは勇者のみなさま、冒険の準備はよろしいですか?笑
長文ですよ。
【sato caraṃ (サトー チャラン)の解説:スマナサーラ長老談】
あなたに「安穏」ということを教えましょう、とお釈迦様は説いています。
それは今ここで発見するもので、どこかからこちらに持ってくるものではないんだ、と。
たとえば、神を信じる宗教だったら、この世に幸福はないんですね。そちらに行かなくてはならない。結局はどんな宗教でも「究極のやすらぎ」という言葉を使っていますけど、それは、ここにないものなんです。
宗教の世界では、自分が死んでから安穏の世界に行かなくてはいけない。
お釈迦様は「この存在は“苦”そのものであり」と言いながら、「安らぎはここにあり」というんです。
日本語訳では「伝承によるのではない」と書いてあるだけですが、わたしにはちょっと納得がいかない。ドータカは究極の知識人です。世俗的なことを話しているのではありません。
「今ここで安らぎを体験できるということを知って、気づきを実践しなさい。」とお釈迦様はこの偈で言っています。
サトーチャラン、チャランというのは、「歩く」「旅する」という意味です。もう一つの意味は、「生きる」。つまり、気づきをもって歩く、旅する。旅するというのは生きるということです。気づきをもって生きる。食べること、トイレに行くこと、仕事すること、全部生きることでしょう。そちらに何が起きているのかとチェックするだけ。だから、あえて違ったことをすると、宗教的な修行になります。
たとえば呼吸瞑想も、わたしたちが教える場合は、すっごく気をつけて教えます。
ふつうあなたは息をしているでしょう。それをチェックしなさい、と。世間で教えている呼吸瞑想は、長ーく吸って、長ーく吐いて、とコントロールしますね。数を数えたりもします。
呼吸することは生きることに欠かせないものですが、世間の呼吸瞑想では、それを別個に取り上げてしまう。
別に取り上げちゃうと、生きることに関係がなくなってしまいます。
十分間深呼吸しましょう、というのは体にとってはいらないでしょう。たとえば、10分深呼吸して、今度は10分休んで、また10分深呼吸する、と繰り返すと、30分でいろんな幻想が見え始めます。すごく簡単に。
どういうことかというと、脳が、酸欠状態になるからです。呼吸し過ぎちゃって。そうすると、五感の管理ができなくなるんですね。それでちょっと神秘体験が生まれたりする。ブッダはそれをやらせませんよ。
(質問者談)
「でもブッダは、初期の頃はお弟子さんたちにサマタ冥想をさせて、それからヴィパッサナーを教えたと聞いていますが?」
(スマナサーラ長老談)
その通りですが、仏教では、日常呼吸は変えません。
ここで説明したのは、「世間的な呼吸瞑想は、日常やっている呼吸を変えて行う」ということです。
仏教では、日常の呼吸は全く変えません。
そのままの呼吸を観ているんです。そのままの呼吸を観ていると、どんどんよく見えてくるんです。今まで気づかなかった、呼吸の流れが見えてくる。だからと言って、呼吸はわざわざ変えません。
たとえば、体全身を感じながら「吸います、吐きます」と。今は、わたしたちは体全身を感じません。しかし、呼吸を観ていると、吸っただけで全細胞がその影響を受けて感覚変化するんです。それは自動的に発見する。仏教のサマタ冥想はそういうふうになっています。自然に逆らうことは一つも使いません。
呼吸冥想は、仏教で経典一つ分もあります。アーナパーナ経典を見てみてください。呼吸は自然にやるものなんですね。
ブッダのサマーディ冥想は、脳を壊すことはしません。
呼吸を一切管理しないで、そこは体が自然にやっていくんだから、その呼吸を一切の集中力で追っていく。
そうすると、吸ったり吐いたりすることは、体全細胞の仕事であるとわかる。科学的になっちゃうんです。各細胞が呼吸しなくちゃいけないからね。
呼吸っていうのは肺と横隔膜だけの仕事じゃないんです。そうすると、肉体っていうものがなんか一つになっちゃうんですね。バラバラではなくて。そこで空気の交換が起きている。
そこをみてみると、今まで自分が考えていた五欲なんかは、あんまり意味がないね、こんなことですから、と五欲や五蓋から離れて、なんか安穏なところになる。それが第一サマーディです。
それを科学的に持って行くことで、ブッダのサマタ冥想はみじんも副作用がありません。
それはしっかりと仏教が断言することです、「副作用はないんだよ」と。ですから、お釈迦様に説かれたとおりにやってください。
もしご自分が別な冥想法を加えてやってしまったら、保証はできない。いろいろなインドなどの冥想指導者が言っている方法で、異常現象は簡単に体験できますけど、精神的な成長はしません。
瞬間で安らぎを感じたければ気づきの冥想です。
しかし、それは理性と智慧がかかってくるんだから、俗世間はあまり好きじゃないですね。やっぱり嘘じゃなければ気に入らない。神話に育てられた人間だから、われわれは。どうしてもその先入観があります。
サトー チャラン、という言葉でお釈迦様は、「気づきをもって普通に生きてみなさい」と言っています。
「普通に」というところが重要です。変なことをやってはいけない。しかし、仏教では「食べ過ぎるな、酒を飲むな」と言っているでしょう、と文句があるかも。答えは、「食べ過ぎない、酒を飲まない」ということが「普通」です。酒を飲むことが異常です。酒で体をいじることをしないで、自然にいなさい、と。それで「仏教は厳しい」というのはおかしいでしょう。
仏教は、人々を自然に戻したいんです。
仏教の戒律はそういうふうになっています。
仏教の人でも、戒律を守るが特別なことだと思っています。嘘をつかないことが自然であって、嘘をつくことが異常な行為です。
生命を生かすことが普通の行為でしょう。
生命を捕まえて、殺すことってそれが異常でしょう。
そういうことで、仏道、サティの生き方、気づきの生き方、観察の生き方、これは特別な生き方じゃないんです。
普通に生きていて、それを観察してみる。
その世界は、サトーチャランという言葉に集約していますね。
それを実行する人は、世の中の執着を乗り越えよう、と。
世の中のことに執着するほうが異常です。
気づきを持つと、執着せずに生きられる。
執着することが異常です。わたしたちは執着することが普通だと思って、仏教が「無執着」というと、「それはおかしい、できません」と。
しかし、実は反対なんです。
(sato caraṃ (サトー チャラン)の解説おわり)
これで今回の経典解説で学んだ3つの言葉について終わりました。
スマナサーラ長老に「難しくて注釈できない」と言わしめた最終偈(1068または1074)も、下の動画で聞けます。有志の方はぜひアクセスしてみては。動画最後部です😊
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