ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

私はもっと華々しいことをやりたいのです!

質問

歩く冥想を始めました。

それが最初大変でしたが、しばらくやってみたらできるようになりました。

 

それでよかったなと思ったんです。でもその次に、やっているのがとてもつまらなくなってしまったんです。なんでこんなことをやっているのかわからなくなって、それが二、三か月続いて非常に苦しくて……。

 

名越先生と長老の対談本を読みましたら、単純なことを集中できるようになることは大変だけれども、それを邪魔しているのは自我だ、というお話がありました。

 

それでわたしも、『 ”わたしが” 足を運んでいる、上げている』と思っているかぎりは、わたしはもっと華々しいことをやりたいとおもっておりますので、つまらないんだなとわかりました。

 

わかったけれど、どうしてもつまらないんですね。

 

単純なことを集中するにはどうしたらいいのか?

自我は強いままで、なかなか直りません。そこらへんはどういうふうにしたらよいのか、教えていただきたくて今日は参りました」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

自我は誰にだってありますからね。

そこで華やかなでっかいことをやりたいというのは自我から出てくる。それは仰った通り。

 

そういう気持ちになるのは無知だからなんです。

時間というものに理解がないんですね。

 

すごく華やかなでっかいことをやった、というのは、時間を妄想すると出てくる、あまりにも将来のことを妄想すると出てくる錯覚なんですね。

 

世の中は淡々と、つまらない、小さいことで組み立てられているんです。

だから、すべての成功する人は、小さな、シンプルなことを真剣にやるんです。

 

あまりにも将来に行きすぎちゃって、過去に行きすぎちゃって、つまり現実離れですね、そうなると歩く冥想でもなかなかやりづらくなってくるんです。

「こんなことをやっている場合じゃないんだ。もっとでっかいことをやりたいでしょう」と思う。

しかし、「でっかいこと」とは何なのか?

 

たとえば「わたしは研究論文を書きたいと思っているんだよ」と、でっかいことを答えるかも。

「いいですよ。じゃあ書いてみてください」

 

どうなる?

小さな、小さな出来事から組み立てるでしょう。結局は。

 

だから歩く冥想などで、小さなことをできる能力が身についてくるんですよ。

その人がでっかいことをやりたくても、同じやり方で、ステップバイステップでやるんです。

だからかならず成功するんです。

 

ただ単純に「でっかい論文を書きたいな」と思っても、書けるわけないでしょう。

悩むだけです。

「わたしには能力がない」「家族がうるさくて、こいつらのせいで書けなかった」という結果になるんです。

大失敗。

 

そういうわけで、でっかくて華やかなことがやりたい、と思っても、これはどういうふうにやるのかと思ったら、小さな、小さなことで、やらなくちゃいけない。

これをやるくらい落ち着いてなかったら、何もできない。

 

だからご自分で聞いてみてください。

「ただ歩くことさえできないわたしが、何を考えているんですか。でっかいことをやりたいとか」

ただ足を上げる、運ぶ、とこれだけで苦しくなっちゃって、それで世界制覇しようと思っているんですかね? そういうふうに自分に言ってあげれば、こころが成長するんじゃないかと思います。

 

だからでっかく見ることっていうのは、自我であり錯覚であり、それはすごく丁寧に修行して直さなくてはいけないんですよ。

脳にとっては、まとめて概念をつくらなきゃ、脳が働かないんですね。

 

「自分」といいう気持ちがなければ。脳はいろんな仕事をしているんだからね、一つ一つはつまらない仕事なんです。つまらない仕事を、全部「自分」という一つにまとめてあげようとする。脳の中には「自分」とは存在しないんですね。

 

だからとりあえず、誰だって「自分」という気持ちがなければ生きていられないんだから、そこの幻覚はいつでもあるんだけど、それは順番で脳の開発により、直っていきます。

 

「わたしがいる」と思っている。本気でいると思っていますね。

ちょっと生物学的にみてください。「わたし」って体でしょう。体とは細胞でできているでしょう。

 

では、この細胞がわたしですか、あの細胞がわたしですか、と四十兆の細胞を一個一個指さして「わたしですか?」と聞いたら? いないでしょう、わたしは。

 

髪の毛を構成している細胞がわたしですか?

いえ、わたしではありません。

 

皮膚の細胞はわたしですかね?

いいえ、わたしではありません。

 

結局はいないでしょう。

わたしという気持ちを作ってくれる、親分の細胞はないんです。

 

最近まで、「脳がわたしだ」と言っていたんだけど、今は脳細胞を一個一個調べているけれど、脳細胞はそれぞれに与えられた仕事をしているだけです。

「わたし」じゃないんです、そちらも。

 

そこで、まとめて、幻覚で「わたし」と言うものが出てくるんです。

「わたし」という幻覚が、でっかいことをやりたくなるんです。その「わたし」も存在すらしないんです。

 

一個一個の細胞が、伸び縮み、伸び縮みで生きている。

神経細胞も伸び縮みをやっているんだけど、同時に電気信号も発生させる。これは電気信号でもありながら、化学物質でもある。信号によって化学物質が生まれるんです。

それだけで生きているんです。

 

理性でみると、世の中で、でっかい仕事を一発でやるということはありえません。

富士山は一日で現れたものではないんですね。何百万年もかけて、ゆっくりと現れたものです。

 

そういうことで、でっかいことをやりたがっている自分とは、錯覚であると、理解するしかありません。

 

すべては単純で、シンプルなことで成り立つものであると、理解が必要です。

 

苦しくなりますよ。錯覚があるんだからね。

苦しくなっても、「これがやり方だ」と自分を戒めなくてはいけないんです。

(終わり)

 

スマナサーラ長老 東京法話と実践会 2016.10.30

http://www.ustream.tv/recorded/92526227 (期間限定公開)を聞いて書きました。》

 

 

参考外部サイト:

仏教講義 28.希望と欲望 (1)底なしの欲

世の中には、人が成長し成功するためには、ある程度の欲望が必要、という考え方があります。事業で成功したい、お金を儲けたい、地位や名誉、権力が欲しいなど、そういう欲望をバネにして、それに向かって邁進することにより、人は成長できると考えているのです。これは正しい考え方でしょうか?……