ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

生きる目的はなんですか?(3)

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生きる目的はなんですか?(2) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

 

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わたしも普通よりはたくさん服を着ています。

その場合は目的があるように見えますね。

体を暖かくしておこうと言う目的があって、それで服をたくさん着ておこうと。そうやって人間が考えているんだから、目的があるように見えるんです。しかし、ないんです。

 

体の細胞たちが冷たさを感じると、自分で対応しようと次の行為をしています。一定の温度でなければ細胞が死にますからね。だから温度を上げようとする。温度を上げようと言うカラクリの延長で、「服を着なさい」と。服を着る場合も脱ぐ場合も、そう言うことになっています。

 

だからその時も本当は目的があったわけではなくて、「こうなったらこうするしかない」と言う流れがあるんですね。

それは仏教でいう因果法則で、自然の流れ、命の流れ、全て因果法則だよと。因果法則と言った途端、目的はないとわかるんです。

川に目的がないように。

 

この行為の流れで、かなりおっかないことも起きます。

地球のプレート上に我々がいるんだけど、プレートはずっと変化していくんです。止まることはありません。しかし地震が毎日起こるわけではありません。大地震は何十年に一回、何百年に一回という頻度です。われわれは突然大地震が起きたというけれど、そうではなくて、ちゃんと川が流れるように物事は起きて、次にこの結果、ということになるんです。地震が突然起きたと大騒ぎしても、結局は因果法則の流れの中の出来事です。しかしあの行為が、死にたくないと思っている人間にとっては、最悪ということになります。死にたくないという思う気持ちの程度によって、その人々は次の結果として悩んだり苦しんだりする。因果法則です。

 

どこかで地震があって水道もなくて、悩め悩めとテレビで番組を作る。そこで取材を受けた奥さんが、ニコニコとどのように水を節約しているのかと紹介する。その方は、まずきれいな水を子供に使って、それで捨てずに別のところでその水を使うと、次にどうする、次にどうする、と工夫している。その状況で泣き崩れる人もいるかも。NHKは見つけられなかったけれどね。人間の強い行為というのは、こういう事態にならなければわからなかったかもしれません。

 

因果法則なんですね。

自我があって贅沢をしたいという思考を持っていたり、俺が偉いというなんでも公的にやってくれるべきだという考えを持っていると、その人はハチャメチャ悩むんです。面白い生き方ができなくなってしまう。地震があって不便になった人々は、新たな人生経験で、新たな楽しむ生き方を見つけちゃったんですね。じっとしていられない。瞬間瞬間、すごく考えて生きていかなくてはいけなくなった。普段よりは何倍も元気でいることになっちゃった。しかし、こころが汚れている人々にとっては、1日1回しか給水がありません、それでは足りませんと言って、生き地獄を作る。それも因果法則なんです。原因が揃ったら、そういう結果になります。

 

例えば食べるものは配給するべきと思っちゃうと苦しくなりますが、「べき」がなければ、「お腹が空いたけど、まあ仕方がない。飴でも舐めよう」と思えるんです。

 

人間にはポイントがあって、「わたしに限ってどうしてこうなるのか」という「わたしに限って」ってどういう意味? なんの証拠もないでしょう、わたしに限っているのかどうか。その思考は地獄にいるのと同じです。

 

そういうわけで、仏教の覚りというのは、こうなったらこうなると理解するステージがあるんです。

そちらでは悪い、正しいという判断が成り立ちません。地震が悪いとは言えませんよ。こうなったらこうなる、それだけ。人間の感情は関係ないんです。

 

冥想修業するときは、このことを教えようとしますが、結構みんな失敗する。

仏教の冥想で「立つ冥想です」と言った途端、ほとんどの人が間違えます。だいたい99パーセントみんな間違う。この方々は立つという目的を考える。さっさと立ってしまう。これは冥想ではありません。真理をバカにしたら、それは一番大きい罪になってしまいます。立つ冥想だからと言って、早く立ちなさいということではないんです。立った、という行為になるまでのプロセスがあるんです。一つの行為がある、それが終わるともう一つの行為が出ている。それをやると、次の行為が出ている。その行為から次の行為をやって言ったら、もうやる行為がない。それが立った瞬間です。その最後の瞬間の行為が。

 

そのプロセス、過程を経験してください。

3分立っていたということは、行為が一個ではないんです。数えられないほどの行為がある。それをちょっと実践してみてください。日常生活の中でも、「はあ、終わりました」ということはないと理解してください。しかし人間は考えるのだから、頭の中で目的が結構現れます。目的が現れた途端ストレスがかかります。

(続きます)

 

<東京 法話と実践会 スマナサーラ長老 2017年12月10日

https://www.facebook.com/jtheravada/videos/1584500711611792/

法話メモlog http://twilog.org/jtba_talk/date-171210/asc

より聞いて書きました。>