ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

最終回・年末特別法話 2015(7)無執着の終点は解脱

年末特別法話 2015(6)布施とはから続きます)

すっごい善行為は、冥想して禅定に入ることです。お布施よりもはるかにすごい力なんです。

 

第一禅定に入るとは、こころに五蓋(ごがい)がなくなると言っているんです。カーマッチャンダ(欲蓋 kāmacchanda)というのは、肉体がデータに依存しているんです。依存しないと食べることもできないんです。呼吸するときでも、体に空気が触れる感覚でコントロールしているんです。肺に、空気が入ると触れますから、それを感じるんです。感じたデータが原始脳に行って、次に吸ってください、吐いてくださいというんです。そのデータは大脳に行かないんです。だから考える必要がないということだからね。

 

体からくるデータがなければ、ふつう生きていられないんです。第一禅定に入る人は、欲蓋(kāmacchanda カーマッチャンダ)が一時的になくなるんです。ということは、存在とは想像できない状況なんです。原始脳が、肉体から、眼耳鼻舌身からくる情報に依存することを一時停止することなんです。命のプログラムの反対なんです。

 

これは無執着のことなんです。生きることはどうでもいいや、ということにならないと、禅定が生まれないんです。byāpāda(ビャーパーダ)という怒り。怒りというのは、嫌なものは外へ取り出さなくちゃいけないですね。身を守るために。それが怒りという働きです。第一禅定に入ると、データを取り入れることもしないし、データに対して対立することもしない。怒りが消える。そうやって一つ一つ見ると、一時的な無執着だとわかる。

 

それで、さらにヴィパッサナー冥想で、一時的ではなくて最終的な無執着に達するんです。それは、思考に対する執着を捨てることから始まるんです。それから始まるとわたしは言うんだけど、実際は、肉体の感覚を捨てることから、歩く冥想などなどで。

 

歩く冥想で、最近言うのは、「目的を捨ててください」と。 

「あそこまで歩く」と言ったら遺伝子の気持ち、本能です。ただ、「上げる・下げる」とやってください。なんのためでも目的でもない、ゼロ。そういう目的を消して修行するんです。なんのためにやっているのか? 何のためでもないんだと。そういう気持ちになると、やっとヴィパッサナーになってくる。

 

ヴィパッサナー冥想でなかなか成長しない方々がいるんですけど、理由は、「この冥想で何か得よう」と思っているんです。逆です。得るんじゃなくて捨てるんです。捨てる方向に行った人は、あっという間に成功して解脱に達します。

 

言葉がおかしいんです。言葉は存在欲の細胞が作ったから、どんな単語を使っても執着の単語になります。解脱に達すると言ったとたん、執着の単語になっちゃう。だから、つい誤解してしまう。仏道は、捨てる世界です。皆様が行っていることはなんでも、ほんとうの仏教の世界なら、何かしら執着を捨てる世界です。

 

みんなに褒めてもらいたくてお布施したら、あんまり純粋ではないんです。わたしはこの金に執着がある。これをとにかく、この執着をなくす。その一番いい方法はお布施だと。人にあげてもいいんだけど、その人とコネクションが出てきたりして、執着そのままになってしまう。

 誰かに十万円をあげたら、その後も会うたびに感謝されたりして、「おれはいいことをやった」と余計な感情が生まれてしまう。

 

日本の貧困問題で、お金がなくて大学に行けない子供の話を聞きましたが、日本のような社会で、どうしてそんなことになるのか。何かファンドでも作って学費を集めて、勉強したい人はどんどん大学に行っちゃえ行っちゃえと、やったらいいと思いますよ。

 

人にいいことをするのは、無執着と言う立場からみると、気をつけなくてはいけないんです。たとえばわたしでも、誰か困っているならば助けてあげますが、執着は作りません。相手が必要以上にありがとうございますとコネクションを作ってくると、居心地が悪い。常識的にやっただけで、困っている人を助けるのは命の仕事であって、それをやっただけ。

 

自分の執着を捨てるために、本能に逆らうために、本能に逆らう能力を身につけるためにお布施しなくちゃいけないしね。

 

慈悲の冥想もそうでしょう。慈悲の冥想ってなんですかね? 細胞は自分で生きていきたいだけです。自分を生かしてくれるならば、ほかの細胞の面倒も見る。だから四十兆の細胞は互いに協力しあって生きている。細胞は自分勝手に生きているわけじゃないんです。自分で生きたいんだけど、そのために何か支払っているんです。

 

たとえば、脳細胞に、ほかの細胞が栄養をくれるんだから、そのかわりに、ほかの細胞の管理をやってあげますと。まとめて働かないとね。足が足の勝手で成長したら困りますからね。心臓細胞は、ただの細胞ですよ。他の細胞にちょっと生かしてもらっているだけですけど、やってあげる方が量が多い。心臓細胞がやってあげている仕事と言うのは、体全細胞に必要な栄養を送ってあげて、不要物を取り除いてあげて、各所に送ってあげている。

 

わたしの体の中で布施行為をやっているとしたら、わたしの心臓はすっごい武者修行をやっていますよ。お互い、協力し合って生き延びているんですね。

 

それで、慈悲の実践って何なのかと言うと、あなたがわたしのことを心配するならわたしもあなたのことを心配する、と言う世界ではないんです。それは誰でもやっていますからね。犬が尾っぽを振ってくれたらかわいがる、牙をむいたらあっち行け、というのは遺伝子です。

 

しかし、生きとし生けるものが幸せでありますように、という冥想は、究極の幸せがあらわれると説かれていますよ。慈悲の冥想をするたびにわれわれは、本能のプログラムから脱出するんです。それがすごい力になっていくんです。

 

そういうことで、今日のテーマは無執着こそが善である。無執着の終点は解脱であるというテーマでしゃべりました。

 

というわけで話は終了でございます。

 

スマナサーラ長老・東京年末特別法話 2015.12.23

http://www.ustream.tv/recorded/80316896(期間限定公開)より書きました。

Twitter実況:http://twilog.org/jtba_talk/date-151223/asc

f:id:thierrybuddhist:20151226165000j:plain

初めから読む:年末特別法話 2015(1)三福田は仏法僧のこと - 瞑想してみる

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