(前回から続く
そこで例を出しますけど、ろうそくの炎が有る。炎が「有る」と思っちゃうでしょう。
でも、有るではなくて、瞬間に「有る、有る、有る」ではなくて、「有る、無し、有る、無し」なんですね。
だってロウが登って行って燃えたら炎でしょう。
それでそのロウがなくなったでしょう、燃えちゃったんだから。また新たなロウが気体になって燃える。
だから、炎が有るではなくて、有る、無し、有る、無し、なんです。
隙間なく起こるんです。隙間なく有る無し、有る無し、だから、「炎は有る。有るに決まってる」と、その錯覚に陥っちゃうんですね。
有るに決まっていると執着するか、怒るか、感情が出てくる。
その因果法則は一次元ですけど、それをチェックすると、こころが清らかになって覚りの道が開ける。
だからどこを見ても因果法則。ロウソクの炎を見ても因果法則。
因果法則は絶対的にどこにもある真理です。
十二因縁というのは、命に対しての因果法則のアプリケーションですね。応用編ですね。
あれは一つの応用編ですよ。存在に応用している、この法則を。
われわれ修行する人々にとっては、ろうそくの炎にしたっても、解脱には達します。
ケーマーという尼さんは、炎を見て覚ったんだからね。
長い間修行していましたけど。
仏教の世界では、ずっと徹夜をして明かりをつけておくんですね。昔のお釈迦様の時代でも、他の人間と違って、あまり寝ないんですね。修行するんですね。お釈迦様の部屋にもずっと夜の徹して明かりがともっていて消すことをしないんですね。
だから在家の人は油とか持って行くんですね。
夜修行するのは真っ暗闇ではできないからね。歩く冥想は。
ケーマー尼さんも、修行して修行して、身体がクタクタに疲れると、寝なくちゃあかんですね。
寝るときも明かりを消しません。すぐ目が覚めたらまた修行しなくちゃだからね。
それで彼女が、寝るんじゃなくて倒れるところまで修行しましょうと、また冥想に入ったんですね。
そこで明かりが、ほとんど消え始めていた。冥想をやめて油を入れましょうという気持ちにはならなかった。そのまま観察していた。すごい集中力で。そうすると、油はろうそくと違って、芯を作って油に入れて、火をつけると、炎の変化が違うんです。
ロウソクはゆっくり小さくなって消えるだけなんです。
油の場合は、油が減っていくと炎が小さくなるということはないんですね。
布の芯がありますからね。小さくなりかかることはあります。小さくなりかかってくると、油の供給がないから、布自体が燃える。そうすると、炎が大きくなっちゃうんです。それでまた油によって燃えて、油が登ってこなくなると、芯自体が燃えて炎が大きくなる。
それが何回も起きて、最終的には、油皿の中が全部燃えちゃうんです。
布の芯が全部燃えちゃうんです。それで炎が大きくなって、それからプッと消える。
そういう様々な変化で炎が変わっていくことが見えて、それで
「原因があってこうなって、原因があってこうなって……。
ああ、有るっていうことは存在しないんだ。この体も炎と同じく、現れて消えて、現れて消えて。
なあんだ、そういうことか」
と、それで覚りに達した。
そういうことで、多次元の因果法則をわたしたちが人間の頭で理解する場合は、どこを見たっても因果法則ですからOKです。
因果法則にないものはないんです。原因があってなんでも有るんです。原因がなく、何か有る、ということはありえない。
そういうことで、何かにちょっと応用してみる。
以上です。
生活作用というのは生きていきたいというエネルギーの衝動のことです。
(おわり)
最初から読む:
十二因縁(1) - ブッダ・ラボ - Buddha laboratory
スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
参考外部サイト:
パティパダー巻頭法話(210) 自分が作った網に自分でかかる
お釈迦さまは、「ケーマーよ、身体とは不浄なものを集めて構成されたものです。身体からは常に、不浄なものばかり放たれるのです。愚か者が不浄な肉体に執着するのだ」と説いたのです。ケーマー妃は預流果に達しました。のちに彼女は出家して、大阿羅漢の一人になったのです。