(一切の問題の解決法-ブッダが説く諦めとは何か(11)から続きます)
諦めるということは智慧だから、わかったものは後でわからなくなるということはないでしょう。たとえばわたしが、「生命と言うのは子育てのために生まれているんだ」と言ったでしょう。その方向で皆様方もテレビのいろいろな番組を見て、調べるならば、「ああ、なるほど、なんかむなしい、というか、なんかよくわからない……」となるんですね。
ある一面では、子育てに命を懸ける姿が美しく映るんですよ。なんてすごいんでしょうか、とかね。あるアフリカのカエルの番組があって、父親のカエルが子供を守るために牛を攻撃するんですよ。四百匹くらいオタマジャクシがいるところに牛が来て、そこに牛が足を入れちゃうと、オタマジャクシが結構死んじゃいますからね。カエルのお父さんがね、牛を攻撃したんですよ。それで牛が逃げたんです。
牛が水を飲もうと水辺に顔を近づけたところで、カエルのお父さんが、パクンと鼻に飛びついたんです。牛はどうなったのかわからなくなっちゃって、じゃあここはよそう、と。それを見ると、カエルのお父さんはよく頑張ること、子育てに。牛に向かって攻撃と言うのはね、人間ならそこまではやらないでしょう。
ほかにも、水路を作ってあげるは、子供たちをどんどん引っ越しさせるわ。それで獲物がなくなりますからね。それで自分はほとんど何も食べていない。二十四時間オタマジャクシを守っている。上から虫が来たらぱくっと食べますけどね、水の中のものは何も食べない。
そのうち、オタマジャクシがカエルになったんですね。そのカエルたちはアリを食べたりしていますけど、そこにお父さんの姿はない。もう跡形もないんです。全然立場がないですね。もしかしたら子供のカエルたちは忘れちゃったでしょう、自分のお父さんがここまで守ってくれたということを。
だからそこを見ると、微妙に感動的なところがあるんですけど、裏を返すと、子供を必死で育てて、お父さんカエルに何かありますかと言うと、何もないんですね。自分はきれいさっぱり無視されちゃうんですね。
そういうふうに調べてみるとね、何とも言えない、むなしいという言葉が……。何にも目的は無いんだ。こんなバカバカしいや、と。だからと言って子育てはしなくちゃいけないし。したんだからと言って、何か得るものもないし。
だから無執着で、まあしょうがない、やりますと。そういうふうに生きていればいいでしょう。しようがない、仕事に行きます。しようがない、子供の面倒を見るんだと。あんまり真剣にならなくても、淡々とできますよ。子供の参観日に行かなくちゃいけないのに、俺には仕事がありますよ、とかではなくてね。参観の時間になったら「ごめんね……」とか周りにちょこちょこっと言って学校へ走って、終わったらまた走って会社に戻ればね。
執着がない場合は、いたって簡単にできるんです。あれもこれも走り回ってやっちゃって構わない。それも、無執着ならできる。そこで、「人生ってそんなもんですね。何やってもむなしいものですね」と頭までよくなっちゃって、会社を退職したら、今度は自分の心を清らかにするぞと、自分にも宿題ができています。
そこで、決してあきらめてはいけない、と言うのはそこらへんなんですね。自分が生きている生き物だから、生き物としても自分の成功・成長は決してあきらめてはいけないんです。ですから、わかりやすく言えば、こころの成長ですね。これは絶対あきらめてはいけない。それから、幸福になる計画はあきらめてはいけない。
皆さんが思う幸福になる計画と言うのは、執着することですよ。家を作ること、貯金額を増やす事。あんなのは自分のものにならないんですよ。誰かが持って行ってしまいますからね。かわいそうに。そんなのは幸福じゃないんですよ。
怒らないこと、落ち着いていられること、こころが慈しみであふれていること。すべての生命に対して何の差別もなく、生命であるとみられること。わたしは瞬間瞬間死んでいくんだ、だからなににも執着しないでいるんだ、というのが幸福なんです。それで、脳もこころも、ムチャクチャ幸福を感じるんです。
(次回に続きます)
関西定例冥想会 2012.07.15 ブッダが説く諦めとは何か
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1766862.html より聞いて書きました。
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