ウェーサーカ法話(2007年5月12日)アルボムッレ・スマナサーラ長老
(https://www.youtube.com/watch?v=sQT_7Z4XbwA を聞いて書きました)
お釈迦様のウェーサーカ祭をお祝いする、大変ありがたい、めでたい祭りのときに、一番聞きたくない声になりますけど(笑)。
一応、ウェーサーカ祭では何か説法しなくてはいけないというね、「やめたい」という希望をみんな持ってますけど、やっぱり昔から、お釈迦様の話を聞かないと何のためのお祭りかということになりますので。
お釈迦様は、まあ、皆さまもご存知の通り、幸福を語ってきたんですよ。
それを世の中では、「お釈迦様は生きることが全部苦しみだ、と教えたんだよ」と解説するんです。
お釈迦様は、「生きることはすべて苦しい」という悲観主義を語ったんじゃなくて、いかに人間が幸福になるのかと、幸福っていうのはなんなのかと、どうすれば幸福の道に達するのかという極限的な、究極的な幸福を語り続けていたんです。
涅槃に入るまで。
だから「覚り」という瞬間で、その最高な幸福を自分のものにしたんです。
それから四十五年間ずっと、幸福の道を教えながら歩いていたんです。
それからお釈迦様が涅槃に入られる瞬間でも、幸福の道を語って、お釈迦様が涅槃に入られたんです。
というわけで、お釈迦様が生まれたことも幸福で、覚りをひらいたことも幸福で、涅槃に入られたことも幸福で、ということで、その三つ合わせたものでウェーサーカ祭を行っています。
お釈迦様の時代、ある場所で、お坊さんたちが集まってなにか世間話をしていたんです。
これは見事に、現代人がしゃべっているようなことをしゃべっていたんですね。
一番金持ちは誰ですかと、コーサラ国王ですか、ビンビサーラ国王ですか、一番車を持っているのは誰ですか……、一番軍事力を持っているのはどの国でしょうか、などなど。
これは現代のわたしたちもよくしゃべる内容なんです。
一番いい鞄を持っているのは誰ですか、年商十億円の社長は誰ですか、日本でプライベート飛行機を持っている人は誰ですか、とか。村上さんの年収はいくらでしょうか、とか。いまちょっと村上さんは訴えられていますけど。(2007年当時)
あの人が結婚式で着たドレスは一千万だとか、披露宴でどれくらいお金がかかったか、一人当たりの食事代はどれくらいでしたかとか、そういうふうなことは、ずいぶん興味がありますね。現代も昔も。
しょうがないんですけど、これは人間が考えている幸福なんですね。
ブランド品のカバンが持てるようになれば、高価なアクセサリーがあれば、とかね。皺を隠すことができれば、ウェストが細くなれば、とかね。
ま、これで幸せだと。
それでお釈迦様が比丘たちに、
「あなたがたは何をしゃべっていたのか?」と。
比丘たちは正直に、
「実際本当にわからないんです。一番国益が高いのはコーサラ国でしょうか、マガタ国でしょうか? 一番軍事力を持っているのは……」と。
現代ふうに言えば、「アメリカでしょうか、ヨーロッパでしょうか」と。
そんなことをよくしゃべりたくなるんです。
なぜかというと、それが幸福だと思っているからです。
お釈迦様の反応は、「けしからんや、あんたがたは。わたしがしゃべってはいけないと禁止していることをしゃべっている」
誰かさんが、一千万円のダイヤのネックレスを持っているんだよと言っても、関係ないでしょう。なぜそれをいちいち調べるのでしょうか。誰かさんの収入はいくらくらいかとか、別荘を何軒持っているのかと。
人間っていうのは自分のことではなく人のことをみて、自慢するというか、何でしょうかね……その心理は。自分の足元を見ないんです。
肝心なのは、自分が幸福であるかないか、ということです。人のことを考えると、たちまち自分の幸福は壊れてしまいます。
人がお金を持っていても、自分が幸福かどうかはわからないんです。
アメリカの大統領が世界一幸せ者かどうかもさっぱりわかりませんよ。
会うこともできない、会話もできない人々が、大統領の新聞記事を書いたりビデオを作って流したりすると、それを人々は鵜呑みにする。その人のプライベートは世間にはわからないんです。
会社の規模をみたらその社長にこれくらい年収がありそう、と言えるかもしれませんが、本人が幸せかどうかは別な話です。
だからお釈迦様は、最初から、一人一人が穏やかで幸福に楽しく生きることから始めましょう、人のことは放っておきましょう、と。
「あの人のように豊かになるぞ」と思ったら、話にならなくなっちゃうんです。その人が幸福かどうかはわからないんです。
また、無理なんですよ、「あの人」のようになることはね。
人間というのは「ほかのだれか」になってはならないんです。なれませんしね。試しに誰かが白鳥になったりクジャクになったらいかがでしょうかね。カッコいいよ。空も飛べるし。
白鳥が嫌なら、トカゲになったり、ワニになったり。
しかし、そうはなれませんね。自分は自分です。
自分が自分の環境の中で、いかに幸福に幸せに生きるのかと考えなくてはいけない。
(続きます
「わたしのもの」とはどんなもの - ウェーサーカ祭2007(2))
参考外部サイト:
パティパダー巻頭法話(16)「他人ばかり観たがる心」1996年6月
人と心を通じあわせているのだと思いこんでいるだけです。もし互いに理解できるようになるならば、この世は何も対立のない幸福な社会になるでしょう。
人は他人が違う意見や判断を持っていることを知っていても、それが自分の意見や判断に合わない場合は認めようとしなくなります。