昨年末に行われた、スマナサーラ長老の年末特別法話のメモ書きです。
” 最終的にこころが清らかになるには、「呪文」があるんですね。
その呪文を唱えてください。何か悩んでいるときは、「これが執着だ」と。「執着があるんだ。何かに引っかかっている。それで落ち着かない。何かイライラしている。これが執着だ」"
"「これが執着だ」
という言葉を念じてください。呪文のように。いつも念じていると、結構こころが清らかになって、やがて方法が見つかります。執着が見えてくるんですね、その場合は。「これにはこんな執着がある」「あれにはあんな執着がある」と。"
" 執着は二種類ですよ。
「ほしい」という気持ちと、「これは嫌だ」というのも執着ですね。
「あの人は気に入らないな」と思うと、またこころが汚れてしまいます。だから「あの人が気に入らない」と思ったことも執着です。”
" 執着というのは、自分のほうに引き寄せる執着と、出て行けと引き離す執着の二つがあるんです。"
" この「呪文」を憶えてください。
こころを清らかにするために洗剤を使う感じで、徹底的にきれいにする。どんな汚れもなくなってしまう。ピカピカ状態になります。呪文は、「これが執着だ」と、これだけ憶えてください。"
”「これが」はなくてもいい。「あ、執着だ」と。
「執着」というポイントですよ。”
「呪文」とわざわざたとえたのは、『 " 冥想 "というと、皆さんには、なにか宗教的儀式だという先入観があるから』ということだそうです。
それに関連して、仏教を実践している人もいまだに抜けきらない「宗教という洗脳」についてスマナサーラ長老が分析されていました。とても興味深かったお話でした。
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当日の実況ツイート 梛(@jtba_talk)/2016年12月23日 - Twilog