ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

悟る目前の修行者は鍛冶屋です(スマナサーラ長老の法話より)

 ヴィパッサナーは強烈な勢いでやらなくてはいけません。のんびりやっていてはかなり難しくなります。悟れないのです。

 

 悟りを目指す修行者は真理のみを語ります。もし他のことを尋ねられたら何も語りません。ブッダの教えのことばかり話すのです。

例えばその修行者がお坊さんで、在家の方が来て「何か教えを説法してくれませんか?」と言うと、そのとき自分の修行の中でやっている真理のどれかを語るでしょう。在家の方に「あなたは子供が何人いらっしゃる?」などとは絶対に聞きません。

在家の方が「子供が三人いて、早く孫の顔が見たいんですけどね」と世間話をしてきて、それに合いの手を入れていると修行者の心が汚れていってしまいます。

 

ですから悟りを目指している最中の修行者は、すごく気をつけるのです。ダンマだけ、涅槃のことだけ、自分の修行の中身のところだけしか喋らないと言うふうに、ものすごく注意します。原子炉を修理するかのように、極端に気をつけるのです。法ならざるものは語らない。解脱に関する法のみを語るのです。俗世間にある言葉を使うことで自分の解脱の道に障碍が割り込まないようにします。

 

 しかし、心というのは思考するものです。瞑想中と言っても、心は殺していないのですから。心は生きているので回転します。それは止まりません。心の回転とは思考する、妄想することです。しかし本当の道に入っている人は、思考が回転しようとすると、そこでダンマを入れるのです。心が俗世間の次元にいると輪廻転生は終わらないと、修行者は気づいているからです。

 

修行者の足元に、花が木から散り落ちてくる。すると修行者は「ああ、やっぱり無常ですね」と観察します。「花が落ちた」と思わない。「花が落ちた」とは思考妄想です。

また、地面に散った花を見て、「花びらが綺麗だ」とは思わないのです。これも無常だと観察します。花が散る前はそこに花弁はなかったのですから。

 木から儚く花が散る。自然の有り様は、俗世間にとってはとても美しいものです。しかし修行者は、瞬間ごとに変わっていく、無常ですと考えます。このように思考が出る時でも、真理のみに焦点を当てます。他の思考は絶対にしないように、ものすごく気をつけます。

 

 悟りの最終段階に入った修行者は、原子炉の修理に入ったくらい注意を怠らなければ、長くても二日以内に悟ります。が、世間に関わる思考をすることは解脱の道に入っている人にとっては、危険な障碍になります。なぜなら、心の状態はすぐ元に戻ってしまうからです。

 

 私の師匠が私に言ったのは、鍛冶屋さんの例えでした。鍛冶屋さんが自分の好きな形に鉄の塊を変えたい場合はどうするのか? と。

まず鉄を真っ赤に熱するでしょう。ふと時計を見たら12時。では昼ごはんだと、これを置いておいて昼食を食べるでしょうか? 食べません。あの真っ赤に熱せられている内に、叩いて叩いて、好きな形にする。ほか何もしません。決して手を休めません。せっかく鉄を加工できるまで熱くしたのです。タイムリミットまで2分しかありません。

修行者はその2分間で、鉄を打ち続けて完成させなけば、また一からやり直しになってしまいます。

 

そのように、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果と、同じプログラムで完成させるのです。

(了)