ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

パティパダー2023年5月号 智慧の扉 命と感情 スマナサーラ長老

 生きることと感情は互いに支え合っています。

感情があるから命がある、命があるから感情があるのです。私たちがおこなう行為自体に本来なら善悪の区別はありませんが、感情が割り込むことによって、善行為と悪行為に分かれます。たとえば、「座る」ことが善行為なのか悪行為なのか、感情をチェックしなければ判断できません。私たちの行為そのものには、善悪のラベルを貼れないのです。

 

電車の優先席を例に考えてみましょう。

自分の心身は健康そのものなのに、混んでいる電車の優先席に座るとしたら、そのとき自分の感情はどのようなものでしょうか? ガラガラに空いている電車の優先席に座るときの感情と、まったく同じでしょうか? 座るという行為は同じでも、そのときの感情は違いますね。食事をする場合、ビュッフェでお腹がいっぱいなのに料金の元を取らなきゃと欲で食べるのは悪行為になります。それに対して、肉体を維持するために適度な食べ物を摂ることは善行為になります。「食べる」という行為も、欲や怒りの感情が背景にあるか、または理性があるのかによって善と悪に区別されるのです。

 

生きかたの場合、生きることがどんどん苦になるならば、その生きかたは悪行為ということです。

反対に、生きることが楽になっていくならば、自分の生きかたが善行為になります。とはいえ、簡単に変化する感情がある限り、実はその善行為の生きかたにも安らぎはないのです。感情はいたって簡単に変わってしまう性質を持つので、頑張って良い感情を作っても、すぐに変化して怒りや憎しみなどの悪い感情になってしまいます。だから、善行為に努めても安らぎを感じることは難しいのです。

 

それでも、超越した智慧があるならば、善い感情からも悪い感情からも脱出することができます。

もしも本当に安らぎを目指すならば、悪感情からも善感情からも離れなければいけません。理性のある人はその境地を目標に頑張るのです。そして揺るぎない智慧が顕れたならば、悪行為にも善行為にも執着しない境地に達します。それを仏教では〈涅槃〉というのです。

(了)