質問「慈悲の瞑想の中で、『生きとし生けるものの願い事がかないますように』とは、イスラム国の願い事もかないますようにということなのですか? つまり、悪いことをする人の願いもかないますように、ということになるのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
仏教の瞑想と言うのは、根本的に心を直す実践方法です。
われわれはもともと恐ろしいエゴイストで、自分だけ良ければいいという生き方をしているんですね。他の生命も生きる権利があるということを認めたくないんですよ。たとえばわれわれは魚を食べていますね。魚も堂々と生きる権利がある生命だということを意図的に忘れます。それで、美味しいから食っちゃえ、ということになるんですね。
自分に何かされたらすごく腹が立って、痛がりますが、魚釣りの人は、魚を針で取り上げることには、何の違和感も感じないんですね。
わたしたちは他の生命に対して、何も受け取れない、理解したくない状態にいる。それはダメで、人間として向上しなくてはいけません。
ただ生き物で十分だったら、仏教はいりませんね。キリスト教もイスラム教もいりません。
慈悲の瞑想で、自分のことだけ見る、自分のことだけしか見られない弱さがなくなって、どんどん(見る対象の)幅が広くなって、心が成長することは確かです。自分の人格が向上するのは100パーセント確かです。慈悲の瞑想で。一日でもやってみたら、前の人間ではないんです。
お釈迦様の言うには、指を鳴らす瞬間だけでもやってみてくださいと。すごい結果になりますよと。そこまで言っています。指を鳴らすくらいの時間でも、「すべての生命が幸福でありますように」と思うと、心が影響を受けます。
それほどだから、時間をかけて真面目にやると、人間は成長してしまうんですね。
質問者「あの、すみません。大きなところでは(大義では)分かるんです。が……」
はい、じゃあ、ポイントに入ります。
「すべての生命の願い事がかなえられますように」、と言うところでよく出る疑問点です。
自分の自我で問題を見ようとしています。
ほんとはそうじゃなくて、どんな生命も願いは、ただ生きていたいと思っているだけです。悪人かどうかは関係なく。生命は誰だって、生きよう生きようと努力しているんですね。
わたしたちは呼吸していて、呼吸しなくちゃ生きていけなんですね。願い事なんですね、それが。それを失敗しちゃうと困ります。
おなかがすいてくると、何か食べ物を食べたいと思う。それが願い事なんです。それもできなくなっちゃうと、その生命がすごく困ります。だから、悪人がくだらない願い事を作っても、それがうまくいくわけじゃないんです。
正しい、合理的な、願うべきことがあるんです。健康でいること、食べ物が手に入ること、家族仲良くいること、そういう生きるために必要な努力なんですね。
それで人間が頭いかれちゃって、○○宗教とかね、宗教があってもなくても、こんなのはどうでもいいことでしょう。人間の妄想でしょ。そんな妄想が叶いますように、とはわれわれは思っていなんです。われわれは生命の法則に則って、生命の法則として、願い事は叶えられるべきものなんです。
ですから、自分の思考が割り込んでくると、言いたくなる気持ちはわかりますよ。「生命の悪くない正しい願い事がかなえられますように」と思わなくても構いません。
たとえばイスラム国という考えがありましてね。
かなり勢力を広げてしまっているんですね。今はね。
それは人類の願い事か? と。喜んで残酷な人殺しをするシステムがほしいと思うならば、頭がいかれているだけなんですね。頭いかれている人の願い事が叶えば、自己破壊で。仏教はそれを願っているわけじゃないんです。そうではなくて、もっと理性的になりなさいと。
人間のくだらない考えは、関係ないんです。
たとえば宗教から言えば、キリスト教の人なら、みんながキリスト教徒になってほしいと思っている。イスラム教徒なら、みんなイスラム教徒になってほしい。仏教徒なら、みんなが仏教徒になってほしい? 何ですかね、それは。どうでもいいことでしょう。
だから人間が、何かものをかぶって、それに命かけるというね。
キリスト教であろうが、イスラム教であろうが、仏教であろうが、何か拾ってかぶったものなんです、そんなのは。
宇宙の生命法則ではないんです。地球と言うのは宇宙のほんの一つとみるとね、何教でなければいけませんという法則が成り立つ? そこらへんのグループの人々が、何か拾ってかぶったんだからといっても、それはちょっと頭おかしいだけなんですね。
そういう頭がおかしい妄想が叶ってほしいということではなく、お米をといで炊飯器にスイッチを入れたら、美味しいご飯になってほしいんです。美味しく食べたら、消化してほしいんです。
電車に乗ろうとしてケガしてほしくない。
その願い事です。
階段を下りていくとき、こけたくないでしょ? それは屁理屈ではないんです。
電車にさっと乗れたら、うまくいったという喜びがある。
願い事がかなえられたら、その生命に「うまくいった」という喜びがあるんですよ。
それでわたしたちは、他の生命がうまくいった、その喜びを認められる人間になるんです。
しかし、そこに矛盾が見えますよ。
鳥がさっと飛んで虫を取ったら、鳥の願い事はかないました。しかし虫の立場から見れば、願い事はかなっていません。虫は生きていたかったのに。
そういう風にみると、別な知恵が現れてきます。
「生命っていうのは、生きるというのは、そういうことか。なんか残酷みたいだ」と見えてきます。
(そういう現実はあるけれども、慈悲の瞑想の基本的な意味は)
虫は虫で生活してうまくいった方が楽しいでしょ。鳥たちも鳥たちで生活してうまくいったら楽しいでしょ。われわれもうまくいった方が楽しいでしょ。そういう基本的なところなんですね。
簡単に平和に生きられるということを理解するために、この瞑想をやらなくちゃいけないんですね。
人間に理性が足りません。慈悲の瞑想をやってみたら、人間のやっていることは、明らかに生ごみを集めて大事にしているだけと分かります。
神様とか信仰とか、とんでもないゴミの山を集めて、「宝物だ」と大事に守る。それで、「あなた方はわれわれと違いますよ。だから殺さなくちゃあかん」というのは、理性がない。わたしは宗教を批判しているんじゃないんです。
昔、ある女性の方が、お母さんの言ったことにすごく腹を立ててね。
お母さんが言ったことが「あんたより、家を守ることの方が大事ですよ」と。それですごく傷ついちゃって。「自分の命ってなんですか?」と。母親が自分の子供の命の価値を捨てているんですね。家を守るというのは、人間が作った考えでしょ。
家のしきたり習慣を守りなさいという。しかし、誰も、「嘘をつくな、人に親切にしなさい」ということは命を懸けても守るべきだと思っていないんですね。
日本文化で見ても、人間が何かを勝手に作って、それに束縛されて足を引っ張られて、苦労する、というのはみなさまも身に覚えがあると思います。
だったらなんで、人をだますなよ、というところにはいかないんですかね。嘘をつくなよ、ということを人類の間で命を懸けて守るべきとしないのか。戦うな、互いに協力していきましょう、と言う決まりは「どうでもいい」と。しかしそれが命かけて守るべきものでしょう。
慈悲の瞑想で、人間に必要な理性と智慧が現れることを、仏教は、お釈迦様は、期待しているんです。
ということで、初めに戻りますけど、イスラム国みたいなくだらない願い事ではなく、「生命として欠かせない願い事が叶いますように」と言うことです。
すべての生命に欠かせない願い事、基本的に生きていきたいというね。生きていきたければ、どうか平和で幸せになってほしい。
くだらない願い事がかなってしまえば、世の中が成り立ちません。わたしたちの頭の中にも結構あるんですよ、くだらない願い事が。それはかなわない方が正しいでしょ。
頭の中に隠れている願い事がうまくいかなかった場合、わたしならこう考えるんですね。「願い事がかなわなくてよかった」と。しかし、基本的に生きていきたいという願い事はちゃんとかなっているんです。問題なく。自我を出した願い事はかないませんね。
根本的な願い事は誰にでもあって、それはかなってほしい。
妄想の願い事はわれわれの管轄外。そんなのはまずかなうわけがないし。
悪い願い事は自己破壊します。それが悲しい。死にたくない人間が死んでしまうのは悲しい。
そこで最終的な答えは、人の恐ろしい願い事でなく、生命の基本的な努力がかなえられますように、と。
合理的で、生命が持つべき、人間だけじゃなくてね、願いがかなってほしいという広大なやさしさの作り方です。
(東京・法話と冥想会 2015.01.25
http://www.ustream.tv/recorded/57959831 動画上で24:50~50:00よりメモしました)
「慈悲の瞑想」関連エントリ:
初めのころガツンときた説法です。ときどき聞き直したくなる。今聞いてもガツンときた。
慈悲の瞑想って抽象的で気持ちが乗らないのですが?―実感として慈しみを持つには、目に入る生き物すべてに幸せを願ってみよう。
すべての「説法めも」を読むには: