質問「日常経典の中に回向の文がありますが、*1
ここで出てくる先祖というのは日本で考えられてる先祖ということでいいのでしょうか? それとも、輪廻転生していって輪廻のどこかにいるかつては先祖だった方ととらえるのでしょうか?
回答(スマナサーラ長老)
人間というのは誰でも、特に文化を持っている人間は、先祖に感謝の意持ちを持っているでしょうし。テーラワーダ文化でも、親や、先祖のことをとても感謝の気持ちで思っているし、先祖供養というのは回向することなんです。われわれは回向するんです。お祭りはやりません。盆踊りはやりません。盆踊りをやっても先祖になにもないんですね。
一年に一度死んだ人が下りてきて、食べ物を奉納したりするというのは仏教的な思考ではないんですけど。先祖は先祖ですから、お世話になりましたから、それで回向するんです。
問題は、先祖というのは誰かということ。これは大きな問題ですね。
今われわれはここに人間でいるんだから、われわれの親戚が先祖なんですね。今の自分の命を形成させて育ててくれたんだから、そこで日本でも考えられている先祖ということになるんですね。
でも輪廻の立場から見ればどうなるかというと、また違うでしょうね。自分の親戚は別にいて、弟さんの親戚は別にいる、ということになっちゃうんですね。
そこで仏教はどうするかというと、「ワイルドカード:wild card」(どんなものも対象とする、という意味)でやるんです。
供養を受ける人がいれば、誰でもいいんだから幸福になってください、と。あまり厳しく範囲を定めないんです。
ある日おばあちゃんが、スリランカで、亡くなった旦那の供養の法事をやって、その法事にたくさんのお坊さんたちが行くんですけど、わたしは若かったし、長老たちもたくさんいて、それで長老たちがわたしに、最後の供養の説法をしなさい、と。わたしに対して、長老たちもいろいろと勉強させますからね。みんなの前で、長老たちもじっと聞いているところで説法するというのは結構緊張しますよ。死ぬほど苦しんですけど。
わたしが最後の回向の儀式を執り行うことになりました。説法を始めようと思ったら、突然おばあさんが口を挟んできました。ふつう誰も在家の人は口を挟まないところです。そのおばあさんから見れば相手が若い坊主だからね。口を挟むんです。
わたしは、ワイルドカードで、「亡くなった方々みんなに、これから回向しましょう」と。
するとおばあさんがいきなり口を挟んで、「あのね、お坊さん。わたしは自分の亡くなった旦那のために、この法事を一生懸命、お金もかけて用意しました。だからこの功徳を旦那さんにあげたいんです」と言ったとたん、わたしの口がガクッと止まってしまったんですね。
これで負けちゃうと、長老たちにバッテンもらっちゃいますしね。なんとか長老たちがからマルをもらわないと(笑)、立場がないんですよ。
わたしは、
「おばあさんの話はよくわかりました。しかし、人は死んだらどこに生まれるか分かりませんよ。悟っていない限りはね。最後の心の状況によってどこかに生まれます。
お釈迦様ははっきりおっしゃっていますよ。死んだ人は誰からも回向は受けませんよ、と。死んだ人は、ある一か所がありまして、そちらに生まれ変わって、過去の親戚に依存しているときだけ、回向を受けるんですよ。
こういうところに(と名前を言ってあげて)生まれたら、回向を受けますよ。そちらに生まれた人々は、差し入れが必要です。
もし旦那さんが人間に生まれたら、今日はもう一年目の法事ですからね、生まれて一年の赤ちゃんですね。赤ちゃんは自分がどこにいたかとか知りません。だから回向を受けませんよ。そうするとおばあさんのこの功徳が、全部パアになってしまいますよ。
しかし、輪廻の中でわれわれは、数えきれないほどの親戚がいます。それから、今世でもたくさんの親戚がいます。だから無数の生命が、差し入れが必要な状態で待ち構えているんです。今日、おばあさんが法事をやりましたから、『今日はわれわれに何か、功徳を与えてくれるでしょう』というみんなの期待をどうするのですか。
旦那さんだけに執着するんじゃなくて、お布施というのは執着を捨てることです。
せっかくの自分の功徳が、より高い結果になるように、あなたの回向が無駄にならないように、と思って、すべての先祖たちに、今世の先祖たちに、みんなに回向する方が仏教的でいいんじゃないのですか。
自分で決めてください。功徳を小さな、目に見えないくらい小さくするか、または大きくするのかということは、おばあさん次第です」
それで、おばあさんは、普通の回向のやり方に賛成してくれたんですけどね。
もしわたしが、「ああそうですか。それでは旦那さんだけに回向します」というのは坊主としてやっちゃいけないことでね。
そういうことですから、ワイルドカードで回向するんです。
その場合は、必ず回向が届くんです。必ず。
なぜかというと、無数ですよ、親戚は。
こちらにいる人々の中でも、無数の過去で自分の親になった人もいるかもしれませんけど、いまはもう関係ないんですよ。だから回向しても、ここにいるその人には功徳が入りません。
しかし、ある次元があります。そちらに生まれたらすごい不幸に陥っちゃうんです。そこだけ、他人の功徳を受け取って理解して、その能力はあるんです。親戚に期待しています。その場合は、直々の親戚か、輪廻の親戚か、誰でもいいんです。何か関係のある人から回向をしてもらう。
なんで親戚からかというと、そこには気持ち的なつながりがあるからなんですよ。
しかし、気持ち的につながりがなくても、回向は受けられます。だから生きとし生けるものに回向するんです。
それはわれわれにもできますよ、回向を受けることは。誰かさんが本当にいいことをする場合は、こちらも「すばらしいことだ」と正直に素直に賛成する。そうすると、いいことをするのは他の人ですけど、親戚関係も何もないんですけど、自分も共感したことで、自分にもその力が入ってくるんです。
そういうことで、すべての生命に回向するんです。回向された生命が、それを受けるか受けないかは、あまり気にしません。
それで功徳が大きな結果になります。
自分がよいことをしたことは確かですからね。
回向をしたら受けないということはない、とお釈迦様も説かれています。輪廻はすごいものだ、と。把握できる範囲じゃないんです。すごいたくさんですからね、過去は。
日本にある文化的なお祭りとは違います。違うんだけど、似ているところもあるし。
われわれ人間は、自分の親とかおじさんとかおばさんとか、そういう特に親しくした人々のことは、亡くなるとすごく気になるんです。だからそこは、テーマにして、供養します。誰でもいいんだから、功徳を取ってくださいと回向するんです。
しかし自分の家族の誰かがなくならない限りは、その気分にならないということも確かです。
たとえばある若者が、両親も元気で、祖父母も元気なら、「先祖の供養をしたら」と言われても「別に」とその気にならないんですよ。しかしその若者の、たとえば、おじいさんが病気で苦労して亡くなったらショックを受けちゃって、「どうしようか、どうしようか」となると、「先祖供養でもしようか」ということになります。
このように、親しい親族の死が、先祖供養の引き金になることもあります。
ということで、論理的には、人はいつ先祖供養してもいい、ということになります。しかしやらないんですね、実際には。
感情的に、誰か親しい人が亡くなることが引き金になる、ということです。
(関西定例瞑想会 2007.11.11
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/457206.html(音声ファイル:上)よりメモしました)
関連外部リンク:
パーリ語仏教用語集『ANUMODANA(アヌモーダナ):回向』「もしもまじめに回向をすると、人のことを恨んだり、憎んだり、我を張ったりすることはなくなって、人格育成にも役に立ちます。…」
仏教講義、4.死んだらどうなるか (5)来世は自分で選ぶ (No22) 「(餓鬼道について)人が死ぬ時、しばしば心がそのような次元に堕ちてしまうことがあります。…」
関連書籍:
こちらはKindle版も⇒
仏教の正しい先祖供養: 功徳はなぜ廻向できるの? (サンガ新書)
こちら、Amazonでは中古しか売られていなくて、4,114円⁈ 定価は2,800円です。
内容は、人が餓鬼道へ落ちてしまったストーリーが51話書かれています。功徳を回向してこういう(元)人たちなどにあげなくちゃ、という気持ちと、悪いことをしないようにしないとな、それどころかよいことをしないとプラマイゼロにすらならないかも…タラ~(汗)という気持ちが湧きます。
関連論文:
CiNii 論文 - 『仏説孟蘭盆経』の源流 : Petavatthu II.2「舎利弗母餓鬼事」との比較考察
CiNii 論文 - パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養
この二つの論文は、上の関連書籍「仏教の正しい先祖供養」の「ネタ本」(筆者あとがきより)だそうです。一番目の論文はインターネット上で読めます。
「死者たちの物語」にも、「第14話 舎利弗の母」が出てきますので、一つ目の論文と大きな関連があります。「死者たちの物語」を読みたいけれどなかなか手に入らない場合は参考にしてみてください。ちなみに「舎利弗」はサーリプッタ尊者のことで、尊者の前世のお母さまも餓鬼になっていた、というお経(話)です。
関連エントリ:
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html ページ下の方にあります