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Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

業とは、共通通貨です【供養と回向】

質問「最近身内が亡くなりましが、死んだ人への供養についてどうすればいいですか?」

  回答(スマナサーラ長老)

法要というのは自分が何かよい善行為をして、その功徳を回向するんですよ。

だから相手に何かを上げなくちゃいけないんですね。儀式としての供養は、仏教はあまり気にしないんですね。

 人にものを上げることで、人は助かりますから、だからこの場合(亡くなった身内への供養)は物では成り立ちませんですからね、業を上げなくちゃいけないんですよ。

 

生命は業で生きているんだから、物で生きているわけじゃないんですよ。われわれに何で物がそろっているのかというと、業があるからなんですね。

 

人間はご飯という物を食べなくちゃいけないんだけど、ご飯を食べられるくらい業がなかったらご飯は食べられません。だから、自分が楽に生きられるくらい品物がそろっているのは、その品物が自分のところへ引き寄せられるぐらいのエネルギーが自分にあるからなんですよ。

 

ご飯はどんな人間にも必要ですけど、ご飯を引き寄せるエネルギーは、みんなそれぞれバラバラなんですね。だから世の中、みんなしっかりと三食食べていられることができないんです。

 

つまり、必要なのは業なんですね。

 

業というエネルギーは交換できます。

物の交換というのは、同じレベルじゃないとできないんです。ですから同じ人間同士なら、物の交換で、助けてあげることはできます。

 

たとえば人が病気になった。しかしその人には薬を買う能力はない。業がないんですね。苦しんでいる。

そこでわたしが同じ人間だから、「わたしがあなたに薬を寄付します」ということで、助けて上げることは可能です。病気になった本人に業がなくて、自分がわざわざその人に薬を上げたんだから、自分がたくさん業を獲得しているんです。その場合は、病気が治ったところで、その援助は打ち切るんですよ。別にケチったわけじゃないんです。

 

「病気が治ってよかったねぇ」「はい、おかげさまで助かりました」と、お互い契約が成立なんです。その病気が治った人はまだ生きているんだからね、そこまで心配しないんです。

 

なぜそうなるのかというと、人は自分の業で生きていなくちゃいけないんです。

ちょっと業が欠けているなぁと分かったところで、こちらはもっと色々なことを学んでいるんだから、自分のよい行為として、「では業が欠けている人は、そこらへんで補ってあげましょう」と物で補ってあげたりする。そこがうまくいったとたん、「ハイ、契約成立」ということにしてしまうんですよ、世の中、誰でも。

 

わたしもときどき、子供たちに「ちゃんと大学へ入って勉強するならば、お金の心配をする必要はないですよ。全部払ってあげます」と約束はするんです。

しかしその子たちが、勉強をしなかったりサボったりすれば、こちらは全部カットする。カットして、「ハイ、契約成立。終わり」と。一円も上げないことにするんです。

 

もし約束通りにその若者が、大学でビシビシと勉強して、うまくいっているならば、大学が修了するまで、何のことなく援助するんです。

大学修了して仕事を探さなくちゃ、というならば、なんとかそこらへんも人に声をかけたりしてあげる気にもなります。しかし、そこからは、話は終わり。契約成立。

 

人の業を助ける場合は、そんなやり方なんですね。

人間同士の場合は、品物で、解決することができる場合がたくさんあります。しかし、人間に限らず一切の生命は業で生きているんです。だからわれわれの親戚や、おじいちゃまやおばあちゃまが亡くなられると供養をするということは、仏教では、それは業を与えることにするんです。

 

亡くなった人にお線香とご飯を上げても、全く無意味なお祭りだけ。自分の気休めだけ。相手には役に立たない。やっている人は気分が爽快かもしれませんけど。亡くなられた本人にとっては、何のこともないんです。

 

そういうわけで、仏教でいうのは、自分が善行為をして、「その功徳をおばあちゃまに回向します、幸福でありますように」と誓願するんです。そうするとそのエネルギーは伝わるんです。

 

業が入ってくると、その生命がなんか突然恵まれた、という気分になるんです。

 

業のエネルギーはそういう風な交換ができるんですよ。

 

Visaカードが世界のどこでも使えるような感じで、自分の銀行口座は日本にあっても、Visaカードを持っていればどこでも買い物できるような感じで(笑)、そこは共通に使えるような能力を持っているんですね。

 

一切生命の間のVisaカードというのは業なんです。

 

しかし業の場合は、交換できるからと言って、自分の業を与えたら自分の業が減るかというとそれはないんですね。それは精神的なエネルギーだから、自分の精神的エネルギーを与えただけで、与えたということは新たな精神的エネルギーだから、自分の業がなおさら増えるんです。

だから理性のある人は思う存分回向するんだよ、と

 

いっくら回向したっても、自分の業は減らないんです。増えることはあるんですけど。

 

理性のある人は、人の業を受けるんです。

 

人がよいこと、友達がよいことをすると、「ああ、こんなよいことをするんだから、あなたは幸福になりますよ。ではわたしも、その業に乗せてもらって、便乗させてもらって、わたしも幸せになります」と自分も受けたほうがいいんです。

 

そういうことで、よい行為をして、それは回向しましょう。

 

(関西定例瞑想会 2008.01.27

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/502747.html よりメモしました)

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関連エントリ:”死者”たちの期待【先祖供養と回向(えこう)】

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