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「結局は自分のことを何もしらない」アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書)【ブックレビュー】

「結局は自分のことを何もしらない」アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書) を読みました。

結局は自分のことを何もしらない―役立つ初期仏教法話〈6〉 (サンガ新書)

結局は自分のことを何もしらない―役立つ初期仏教法話〈6〉 (サンガ新書)

 

 

 この本は、関西定例瞑想会 2007.09.23

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/431489.html

をもとに「大幅に加筆・修正してまとめたもの(本書より)」とのこと。 

 

この講演音声を聞いたときは、「???」(はてなが止まらない)状態でしたが、本書を読んで「こういう内容だったのか」と腑に落ちました。

以前ツイートしたもの↓

 

この講演音声は私にはよくわからなかったけれど、なんとか理解したいと思ったのは「わたしとは何者か?」がテーマだったからです。

仏道では、ヴィパッサナー瞑想中では、この「わたし」こそがヒマラヤ山脈なんですよね。

これが立ちはだかって、山の向こうの景色が見えないし、行けない。

 

で、この本では「わたしとは何か?」というメインテーマだけでなく、講演では深く入らなかった「生老病死苦」まで網羅されています。

こういう言い方はそぐわないかもしれませんが、ものすごいお得感。

 

読めてよかった。

 

ふと思ったんですが、話は違いますが、このブログは結局、現在のところスマナサーラ長老の説法ばかりになっていますね。

 

こういう理由もありますが、

 

スマナサーラ長老の説法に触れていて感じるのは、「スマナサーラ長老って一人ですか?」ということです。

 

もちろん、話し方の癖とか、外見だってもろにスマナサーラ長老なんですが、そういうアクセサリーをかき分けて進んだ先には、『スマナサーラ氏という名の長老』を超えて、見えてくるものがあります。それが法(ダンマ)なのでしょう。

なぜなら、自分の悩みが減っていくし、慈悲の気持ちを育てなきゃいけないといつも気づかされるし、ヴィパッサナー瞑想を続けていくエネルギーを得ているからです。

 

だから結論として、いろんな長老の法話でも一人の長老でも、どっちでもいいんじゃないか、と。

 

自分の悩みを減らして、慈悲の気持ちを育てて、ヴィパッサナー瞑想を継続していくことができるなら、と思うこのごろです。

 

追記:

慈悲の瞑想はヴィパッサナー瞑想と違ってやりやすい感がありますが、こんなお手軽そうな慈悲の瞑想で慈悲の気持ちを高めていくと、解脱について意識せざるをえないんですね。輪廻は証明することはできないけれど、輪廻から脱することがほかの生命を殺さずに済む唯一の手段であるなら、別の選択肢はないんだからやるしかないでしょう。。。というのが、慈悲の瞑想からの解脱へのアプローチだと思います。

 

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書評「雪」オルハン・パムク著、和久井路子訳 - 瞑想してみる

(でも、再読してみたらちゃんと仏教に絡めて書いてありました。( ̄。 ̄;)ホッ)

 

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