ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

スマナサーラ長老の子供時代【性格は直せるか(3)】

人間に転生するポイントとは?【性格は直せるか(2)】から続きます)

仏教では、人間に生まれたら、これは冗談ではないんだよ、不幸な人は生まれません。しかし一人一人が挑戦することがあるんです。

 それに挑戦しなかったら意味がないでしょう。

 

だから人が心臓弱く生まれても構いませんよ。目が見えなくて生まれても、別に構いません。すごい不細工に生まれてもだから何ですか? 

 

それはそれぞれ挑戦する人のポイントですよ。

 

目が見えないで生まれた人が、目が見える人と同じことに挑戦することないでしょう。もしかすると科学者あたりが考えているかもしれませんよ。カメラの映像を電気信号にして脳に送るとか。頭蓋骨に穴を開けて。しかし脳の中で形を認識する場所、色を認識する場所が残念ながら一か所じゃないんです。だから機械を作れないんです。

 

バラの花を見ても、バラを無数に分解するんですよ、脳の中で。無数に分解して、横の線は一か所、縦の線は一か所、バラの色は一か所、と別々に情報を入れて、それから合成するんです。それで頭の中でバラの花というイメージが作られるんです。

だから幻想を基本にしてカメラを作っていて、脳の基本原理からカメラを作っているわけじゃないんです。

 

こんなことを考える人がいるかもしれませんよ。耳が聞こえなければマイクロフォンから直接神経につなぐとか。しかしそれをやってもただ聞こえただけで、それで人生が何かなるか分からないでしょう。われわれも聞こえるでしょう。聞こえたんだからと言って、どうったことないでしょう。

 

だからそれが道じゃないんです。

あなたは耳が聞こえない、という課題を持って生まれたんだよと。では、立派な人間になるために、あなたはどんなことをするのか?と。

そこで何か新しいアイディアを出して新しい発見をしなくてはいけないんですよ。それが人間の社会でどうしてもやらなければいけないことです。

 

だから人間として業が得られる場合は、業によって得られる場合は、そういう能力がある人々が選ばれてしまいます。

それが生命の中でとっても少ないんです。ワンパターンでシロアリみたいに生活したい生命は、別なところで生まれる。だからシロアリが死んじゃっても、だいたい人間になれないでしょうと思いますよ。たとえばアリが動く場合は、きれいに行列でずーっと動いて、エサがあったら行列で歩いてそこまで行って、また行列で戻ってくる。ワンパターンです。

 

わたしはアリを観察して思ったのが、「エサがあると誰が発見したのか?」。

アリの中に開拓者が必要でしょう。一匹のありだけ、ワンパターンで行動せずにエサを見つけに行く。見つけたら、サッサと戻って仲間に伝えて、それから群れがエサに向かう。だから、最初にエサをみつけたアリは、もしかすると死んじゃったら人間になるかもしれませんよ。二番目、三番目にエサに向かうアリはちょっと失格、落第。

 

わたしは動物を見ていて、システムと違ったことをやる動物はすごく気に入るんですよ。なんかちょこっと余計なことをする。

その能力が、人間にはどうしても必要です。

 

だから自分に生まれてきた子がどんな子であっても、別にどうでもいいんです、そんなことは。だれでも、ちゃんと花を咲かせる資格も能力もあるんです。だからわたしが叱る理由は、それを無駄にするからです。引っ込んで、悲観主義者で、負けちゃって、やがて精神病院で終わると。

 

そう言う人ばっかしですからね。それでわたしは腹が立って「あなた方は間違ってきたんでしょう、人間世界に」というんです(笑)

 

ついでに言いますけどね、わたしは小さい頃、学校には行きましたが教科書は持ってなかったんです。理由は? お金がなかったんです。

兄弟はたくさんいました。親は必要な教科書を買ってくれないんですよ。上の兄弟は教科書を持っているのにと、すごい腹が立ってね、「俺にも必要だ」というんだけれども、親は「どこかから借りてきたらどうですか?」とか、無視されることきりがない。

ノートに書きたいんだけど、ノートがない。そんなに高くもないんだけど、わたしにはないんです、金がなくて。わたしは全く絵が描けないんですよ。猫の顔も描けないんです。理由は、練習しなかったから。絵を描く授業の時は絵具セットが必要です。それがなかったんです、わたしには。どうやって描くんですか。

基本的にわたしには絵なんか描いてもどうったことないという、余計な考えもありましたし、「別にごまかしちゃえばいいや絵の授業は。他の授業で点をとってやるぞ」と。

 

教科書はないわ、メモを取るノートはないわ、そうすると結果が決まっているでしょ? テストで落第して、小学校で学歴が終わると。しかし実際は? 

そう簡単に終わるどころか、大学二年生になると、教授たちが「これはどういうこと? あれは?」とわたしに聞くんです。大学で三年生でだいたいの授業をわたしが教えていたんです。教授は教室にいましたよ。われわれは生徒でしたけど、わたしが授業をやっていたんです。わたしが「先生、それはちょっと違いますよ。このテーマはこういうふうに行くべきですよ」と言うから教授が決めてきたプログラムはぐちゃぐちゃになってしまって。

 

だから、四年生になってくると、ほとんど扱いは教員と同じなんです。その時もほとんどノートを買うお金はなかったんです。ノートを書くときは、余白まで使って目で見えないほど小さく文字を書きました。だからわたしの1ページ分は、普通の20ページ分くらいになります。

 

どうなったかと言うと、聞いたデータはすべて脳に入って留まったんですよ。何の苦労もなく。それでどうなったかと言うと、勉強したものをどう使うのか、どう判断するのか、どう評価するのかという、誰でものどから手が出るほど欲しい能力が出てくるんです。

普通の人が三か月苦労することを、わたしは五分でやっちゃいます。

 

だから、わたしにとって自分がああいう(貧乏な)環境に生まれたことが、わたしの課題なんですね。

だから「教科書買うから金くれ」は答えじゃないんです。親戚同士で協力する国だから、教科書代を親戚からもらうこともできたかもしれません。村のお坊さんも、理由を話せば買ってくれたかもしれません。

 

でもそうしないで、クラスで一位を取るぞと、自分で自分に挑戦するんですよ。

わたしのことをかわいそうな子だと言う人は一人もいません。学校に行くときでも、服はボロボロでしたが、誰もかわいそうとは言いません。誰もいじめません。いじめたければいくらでもいじめるポイントはあったのに。すごい体格の同級生もいましたけど。わたしは体格もよくなかった。じゃあ蹴られたのかと言うと、まるっきりそういうことはなかった。かわりにすぐ、わたしのことをガードしてくれるんです。

 

これってどういうことかと言うと、わたしは、わたしに与えられた課題をちゃんとやったんです。

貧困で、貧乏で生まれて、しかし、世の中で一人前にならなければいけない。ハンディはたくさんある。自分がそのハンディを乗り越えるんです。

 

皆様も同じです。皆様の子供たちも同じです。

その性格でどう生きるべきかと、考えてください【性格は直せるか(4)】へ続きます) 

(関西定例瞑想会 2009.04.19

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/841826.html 音声ファイル上から二番目からメモしました)

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関連エントリ:

 自分の「成功比率(苦労:幸福)」、知ってる?【輪廻転生・後編】

それから人の幸福の割り当ては、どれくらい努力すればどのくらい幸福になるのか、「何 対 何」か、なんかあるでしょ、みんなに。

 少ない努力でたくさん結果を出す人もいるし、適した努力で相応の結果を出す人もいるし、かなり努力しなくちゃ結果を得られない、というプロポーション(proportion)と英語では言いますけど、「何対何か?」のこれってずっと変わらないんですよ。

 

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