(サーリプッタ尊者の説法|カッサパ如来(2)より続きます)
サーリプッタ尊者がお見舞いにすぐ行ったんです。それに、最後にサーリプッタ尊者に会いたいと、自分は後はないと分かって。
テーラワーダ仏教では、決まったお見舞いの方法があるんです。
皆様は死にかけている人のお見舞いに行ったら、どう言う? 「おじいちゃん頑張って」と言うでしょ。「大丈夫ですよ。お医者さんも、薬も。大丈夫ですよ、心配しないでください」と言うでしょ。「元気で明るくいたほうが早く病気が直りますよ」と。
お釈迦様がお見舞いに行ったらこう言うんです。
「あんたはね、もう間もないうちに死ぬ。あとはない、どう見たっても」
そこから始まるんです。
サーリプッタ尊者も、
「あんたはね、そろそろ死にますよ。そこで人間と言うのは生まれ変わりますよ。それで地獄がありましてね、すごい世界ですよ。溶岩の中で生活する羽目になるんだ。極端な苦しみを味わわなくちゃいけません。行きたい?」
友人の人は聞いただけでも怖くなっちゃって、
「ああ、地獄なんかには行きたくない」
「そう? じゃあ餓鬼道がありますけどね。そこはいかがですか?」
「嫌です」
「じゃあ、畜生はどうですか? 犬になって、猫になって、ゴキブリになったりして、楽しいでしょう。カエルになったりとか」
そういうふうに話して行って、人間界はちょっと、カットしてね。
「天界もありますけどね」
と言って、一番低い次元の天界・四天王のことを説明するんですね。寿命はこれくらいで、人間の年齢で言えば一千万歳以上とかなんとか。
「ありがたいなぁ、それだったら」
「もうちょっと上の次元の天界もありますよ」
上の次元の天界で楽しみや寿命がどんなものであるかを言うと、
「それはもっといいですね」
なんかレストランのメニューを見ているみたいですね(笑)
六欲天が終わったところで、
「あのね、もっといいところがありますよ。梵天がありますよ」
そう言ったとたん、言われた人はびっくりして、
「あなた、梵天を推薦するんですか? できるのですか?」
「できますよ。誰でもできますよ」
まるでセールスマンのようですね、サーリプッタ尊者は(笑)
バラモン教というのは、梵天に生まれることが最終目的なんですね。
「梵天にはやっぱりいくらなんでも無理ではないのか」
と言うけれど、もう欲しくてたまらんですね、この人は。そこでサーリプッタ尊者は、
「大丈夫です、行けます。こういうふうにしてください」
と言って、慈悲喜捨の実践を教えるんですね。
梵天・神々はものすごく慈悲喜捨があって、その慈しみの気持ちで生きられる。あなた方みたいに、欲・怒り・嫉妬のかたまりっていうのはまるっきり正反対で違いますよ。だからあなたは梵天と同じ気持ちを作りなさい」
と、やり方を教えてあげました。相手の人は何とかしゃべっている状態だから、他の妄想思考をできない状態でした。傍に偉大なる尊者が立っているし、その影響もすごいし、本人の心が慈悲喜捨に変わっちゃったんです。梵天のことに執着した。
サーリプッタ尊者はそれを見て、「まあ、いいんじゃないか」と思って帰ったんですね。
その人は死んで梵天に生まれました。
サーリプッタ尊者がお釈迦様のところへ戻ったころには、その人はすでに梵天に生まれているんです。
お釈迦様は、どう思ったと思う? サーリプッタ尊者はすごいことをやったでしょう? 一つも善行為しなかった人が、バラモン人にとって最高の目的である、梵天に生まれ変わった。
それはものすごいことなんですけど、お釈迦様は、サーリプッタ尊者が戻って来て挨拶をする前に比丘たちに言いました。
「サーリプッタ尊者が自分の友達に、すごく卑しいところに生まれ変わらせて、今帰って来ます」
と、ちょっと批判したんですね。けなしちゃったんですね。
お釈迦様はサーリプッタ尊者のことをどんな弟子よりも大事にしているんです。だけど、何か教えてあげたいんでしょうね。
サーリプッタ尊者がやったことは恐らくギリギリだと知っていたし。「偉大なる智慧の第一人者と言う割に、卑しいところに生まれ変わらせて帰ってくるところです」と、お釈迦様が比丘たちにしゃべっている。
サーリプッタ尊者は、あんまり自分が褒められてないな…と分かったんですね。
でもそれは、断言的にサーリプッタ尊者の間違いではなくて、ちゃんと経典にそのやり方が記録してあります。
「サーリプッタ尊者はなぜそのように生まれ変わらせたのですか?」というお釈迦様の意図は、恐らく、「梵天よりもいいところがありますよ」と一言でも言ってほしかったんでしょうね。解脱と言う境地もありますよと。
もしその人が「解脱?」と興味を抱いたならば、サーリプッタ尊者がその道を教えられます。預流果に悟らせることができたんです、と。
サーリプッタ尊者にしてみれば、「この人はえらく梵天に執着しちゃったんだから、仕方がありません」という感じで、その微妙な過ちを、かなり厳しくお釈迦様に言われたんですね。
わたしが皆様に言いたいのは、やっぱり当時も悟らなかった人がいるんですよ。
あの人にしても、日常のことで忙しくて、朝早く起きて夜遅くまで、全く暇がなく走り回っちゃって、だから「悟りに達しましょう。解脱しましょう」と言われても暇がなかったんですね。しかし、偉大なる方々と付き合いがあったから、死後は地獄に落ちないで、というのも地獄に落ちる予定でしたからね、地獄に落ちるところが、本人にとっては夢の梵天に行かせちゃったんだから。偉大なる方々と付き合いがあったおかげで。
そういうわけで、寿命が短いからちょっと間に合わない、ということもわれわれにとってはあります。
(カッサパ如来の教え、衰退の理由|カッサパ如来(4)に続きます)
ウェーサーカ祭後日・スマナサーラ長老法話 関西定例瞑想会 2015.05.04(http://www.voiceblog.jp/najiorepo/2152493.html よりメモしました)
初回から読む:お釈迦様より前のブッダは…|カッサパ如来(1)
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