ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

音楽を聴くときの脳と冥想のときの脳

質問「厳しい話(前回の 冥想中に眠くなるのは )を聞いて、恐ろしいところに来てしまったなと思っているんですけど(笑)。

ある学者が、音楽を聴いているときに『時が止まっているように感じる』という研究報告があって、そこにはオブジェクティブ・タイムとサブジェクティブ・タイムがあるということだったんですけど、先ほどのお話で『冥想には精神的な力で自分と戦うことが必要だ』ということでした。

音楽を聴くときの脳と冥想のときの脳で共通点があるのでしょうか?

 

回答(スマナサーラ長老)

難しい質問ですが、わたしの答えはすごく明確です。

脳を停止することですからね、音楽の世界では。脳はノーマル状態で機能させない、ある特別な人工的な状態を作る。それで脳が仕事をできなくて、機能停止しているだけです。

 

では、脳をものすごく元気で活発にして、主体と客体を決めたらどうですかね? それはあり得ないと思うかもしれませんよ。聴覚が働く、視覚・味覚・嗅覚が働く、物事を客観的に考えることもできる。しかし、何事にも囚われないで無執着の境地です。囚われないということは主体と客体が消えることでもありますけどね。

 

仏教の世界では、脳の問題を解決した状態を言っているんです。音楽の世界はかなり修行が必要でしょう。わたしはあらゆる音楽を聴いても、くだらない、ということで終わっちゃいますね。くだらないんだけど、そこを作るためにはかなり修行が必要ということも分かりますよ。

 

修行っていうのは、ある特定の能力を育てることなんです。瞑想っていそういうもので、自然ではないんです。不自然なんです。音楽も不自然でしょう、明らかに。人工的に欲のある心が作ったものなんです。病にかかっている心が作ったものなんです。だから仏教では、音楽・歌と言うのはただの喚き声だと、何のことなくお釈迦様がおっしゃっているんです。

 

とはいっても、音楽の世界も、かなり修行が必要ですよ。だから世の中にある冥想も同じく、なにか呪文を唱えるとか何かに集中して、自然的な生き方と別なことをする。そうすると当然、脳が普通と違う経験を味わいます。それは真理とは全く違います。脳の機能を停止させて脳に障害を起こして気分がよかった、ということと、脳が完全に健康的に働いてすごく気分がいい、というのはまるっきり違います。

 

チラチラと似たような経験にはなりますよ。だってその瞬間で世の中のことを忘れちゃうでしょう。その分苦しみがないと感じる。一つしか感じてないんだから穏やかになるとかね。それは、いいことがないというわけではないんです。たとえば、目を閉じて一日いれば、何も見ていなんだからこころが汚れませんね。派手なお祭りの真っ最中に、目隠しをしていれば、耳栓を付けていれば、穏やかなこころでいられますが、機能停止(障害)状態でしょう。

 

ロック音楽の中、お祭りの真っ最中なのに、自分が落ち着いていられる。しかし、その人は目隠しと耳栓を付けているだけなんですね。それは障害がある状態なんですね。では、ロック音楽がきめ細かく聞こえる。ロック歌手の息まで聞こえる。どんな工夫をしているのかとか。楽器演奏をどれほど苦労しながらやっているのか、照明はどのようにやっているのか、そういうものがすべて見えて、その上で落ち着いている場合はどうでしょうか。

 

わたしは後者を選びます。テレビで若者が音楽をやっているところを見ると、なんか情けなくなることがあります。なんでかというと、微妙なしぐさが、カッコつけて「ああしよう、こうしよう」と見えてくるんだからね。それほど歌唱力がないのに、とにかく機械を通して聞こえるようにしようではないか、とかね。伴奏の音でなんとか声を違った感じにしてとかね。悲しいことだと思っちゃうんです。そこまでして生きていきたいのかと。気持ちよく音楽を聴いている人より、気持ち悪く音楽を聴いているわたしのほうが細かいところまで聴くことになります。映画を見ても場面ごとに説明できます。それぞれの場面でディレクターがどんな風に考えたかと言うことも言えます。しかし作品を喜ばないんです。

 

喜ばないというと、わたしが不感症と言うか、何も感じない人間かと言うとそうではないんですけど、感じるものがないだけでね。水を飲んで、これは超甘いと思っても、水ですから、飲んでいるのは。超甘いと思わないだけなんです。水は水の味で飲んでいるんです。だからわたしは、人間がどこまで苦労しているんですかというところは評価します。

 

プロが歌っている場合でも、なんか憑依された状態で、無理矢理その世界に入っちゃって、終わったらクタクタにくたびれているんですね。それを見て、ものすごくがんばっているなと。だから怠けないで頑張っているところは、評価はします。でも人類に対して役に立つことはしていないんですよ。

 

そういうことで、音楽だけではなくて、踊りとか、絵を描く場合でも、すべて忘れる瞬間と言うのは人間にはあります。

この冥想世界ね、いろんな冥想がありまして、われわれはそれは普通のサマーディ冥想と言います。しかしその場合、正しいサマーディは作れないんですね。ちょっとした精神統一だけの話です。

サマーディまで持っていく場合は仏教の冥想でやらなくちゃあかんですけどね。でもそれって、ある特定の条件なら、特定の経験になるというのは当たり前の話です。

 

ありのままの世界なんですね、仏教は。だから脳は壊しません。脳はしっかり活発に活動する、健康な脳であってほしい。

 

というわけでブッダの冥想をやってみると、脳は開発されます。脳は障害を起こしません。

 

関西月例冥想会 2015.06.07

https://www.youtube.com/watch?v=tadfClGVCbo よりメモしました。

動画上1:09:45~1:21:00

f:id:thierrybuddhist:20150702131055j:plain 

関連エントリ:

芸能スポーツの秘訣|ウェーサーカ祭2015関西(2)

音楽も厳しい修行なんですね。わたしは音楽はまるっきりできませんけど、ある有名な音楽家の大学教授がゴータミー精舎に来て、わたしとしゃべったんですね。その教授が言うのは、「あのねお坊さん、演奏というのも一つの瞑想ですよ。サマーディの精神統一した状態でなければ、歌えませんよ」と。

わたしから見ても、あの能力は相当精神的に訓練していないとできないなと思ったんです。

すべての「説法めも」を読むには:【目次】説法めも