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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

なんで人は念じるのか?(2)繰り返しでこころが変わる

なんで人は念じるのか?(1)迷信と経験的結果から続きます)

そういうふうな現実がありますから、今回は、「なんで人は念じるのか?」ということを調べたほうがいいんじゃないかなと。

 

だからわたしが面白いのは、人間は妄想の達人ですけど、現実的なことは客観的に考えようとしないんですね。時間がもったいないでしょう。何か役に立つことを考えればいいのに。

 

念じることには、心理学的なある一つの根拠があるんです。

「塩をかけたら悪霊がいなくなるんだよ」状態では困るんです。塩は保存するために有効である、と、そこら辺だけ取ったほうがいいんです。それで塩っていうのは、どんないいところがあって、どんな悪いところがあるのかい、というね。そこを調べて使うんであって、ただ、悪霊を払ってくれるから塩を使いましょうというのは、おかしくなっちゃうんです。

 

念じることの心理学的な実験を、皆様にわかりやすい形で説明します。

たとえば、怒りっぽい人がいるとしましょう。その人が数珠でも持ってね、長いやつをね、朝30分くらい、「わたしは怒りません、わたしは怒りません、わたしは怒りません」と念じる。

その気になれば、千回とか五千回とか唱えられます。

 

それから、壁に書いておく。玄関に書いておく。ドアに書いておく。「わたしは怒りません」と。

どうなると思う? 怒れなくなるでしょう、自然に。

そこでその人は、何とか怒りを克服したことになります。そういう機能があります、こころには。

 

それは、こころが変わったでしょう。どうやってこころが変わったかと言うと、繰り返し念じること、繰り返し読むこと。

 

だから、わたしたちには、くせになっていてどうしてもやめられないという悪い性格があるでしょう。直したいことが。そこは念じるとこで何とか治療できます。

 

「科学的」という言葉を「西洋科学的」「物質科学的」と同じ意味で、われわれインド文化では使いません。正しい知識に達する道が、「科学的」と言うんですね。だからガジェットを作るだけが科学的なんじゃないんです。

 

インドの宗教も二つに分かれていますよ。調べる道である宗教と、信仰する道である宗教に。「調べる」ことを中心にすると、その人々はいろいろな実験をしなくてはいけないんです。それで冥想やらいろいろなことが出来てきたんです。仏教だけじゃないんです。

 

信仰することが宗教になった途端、知識はいりません。そこでは、いろいろな儀式・儀礼、お祭り、しきたりなどができあがっちゃうんです。

だから宗教はこの二つの種類です。合体しているように見えますが、これは合体できません。

うまくいくわけないんです。崩れます。

 

だから、イスラム教では知識のほうは禁止。断言的に禁止。

キリスト教はごちゃごちゃに入れてしまったんですね。はじめは断言的に信仰のみで、人々がちょっと何かやったら裁判をかけて殺していたんだからね。すっごいコワかったんですよ。裁判と言っても神父さんが執り行って、弁護士がいたわけではないんです。「この人は魔女だ」と神父がいったら、「ハイ、処刑」という。

そのキリスト教に知識も入れてみてしまったら、ごちゃごちゃになってしまったんです。

 

だから、ヨーロッパではキリスト教を今は信仰していない。教会は文化財として大事に守っています。それで終わり。

アメリカは、知識は措いておいて、すごく厳しくキリスト教をやっていますね。信仰だけで頑張っています。そこでは知識をつなげていなんですね。

 

しかし人間は正反対の二つを無理につなげようとして頑張ってしまいますけど、結局くじけると思います。信仰型宗教だったら、知識は毒なんです。日本仏教から言えば、浄土系は信仰なんですね。そちらに知識を入れちゃうとすぐ壊れるんです。

 

だから、仏教を学ぶなよと禁止しているんですね。そうはいっても、浄土系のお坊さんも大学で勉強します。だから結構、大変なことになります。お坊さんにとっては、勉強するのはいいんだけど、自分たちの宗教にそれを持ってくるなよということがハッキリするんですね。宗教は、親鸞が教えたものであると。親鸞が覚らなかったんだから、誰も覚りません、で決まり・終わり。理性で考えるならば、親鸞というのは唯一すぐれた人間であったと、親鸞の能力には誰もかなわないということを証明しなくてはならないんですよ。

 

人類がかなわない能力を持っていて親鸞が覚れなかった、というなら、あなたなんかが、というのはわかります。どう見ても親鸞っていうのは、そんなに日本歴史の中ですごい人物というわけではない。頑張っても性格が変わらなかったんだから。失敗ですね。理性でみるとそうなります。

 

大乗仏教にしても、すごい論理的にやると、迷信的なところは消えてしまいます。宗教は二種類ですよ。知識型と信仰型。知識型ならいろいろな実験をしなくちゃいけないんです。信仰型はお祈り・儀式儀礼・しきたりを守ればいいっていうことですね。

 

人間は基本的には頭が悪いんだから、信仰型を広めちゃうし、なかなかそれは消えません。日本でもお盆をやりますが、なんでやるのかとわかっていません。お墓参りはするんだけど、なんでするのかと考えないでしょう。あれは信仰型。

だから、かなり数が多いですね。

 

そういうことで、冥想すること、修行することは、知識型宗教の特徴なんです。そこで、神を信じる場合は、信じるんだから知識は禁物ですけど、知識といやいや結婚するんだから合わないんですね、これが。

蛇と猫が結婚したような感じで。オオカミと犬が結婚したら何とかなりますけどね。

 

神を信じる宗教に、知識を入れようとする人々は、神をがいると証明してみようと何とか頑張っています。

これは意味がないでしょう。神がいるかどうか証明しようとした時点で、神を疑っているんだからね。神は怖いんだから。「私を断言的に信じなさい」と言っているだから。調べようとした時点で侮辱しているでしょう?

 

神を冒涜することは罪の中で最大でしょう。だから、知識型は合わないでしょう、神の宗教に。だから合わないんです。それでも、証明しようとしては失敗する、やっては失敗する、の繰り返し。

証明できないものは存在しないと言っちゃえば知識的でしょう。それは言わない。言わないで、信仰で「それでも、いるかもしれません」と苦労しているんですね。

 

水と油を一緒にしようとしています。これは一緒にならない。

 

それで、宗教の中にある一つの特色は、「念じる・唱える」なんですね。

唱えることには、実益があるんです。それは一般の人にも実感できます。念じると、性格が変わってしまいます。怒りっぽい人が毎日30分くらい「わたしは怒りません」と唱えれば性格が変わってきます。それで本代の何百円かが浮くと思いますよ(笑)。

 

こころにいつでも、「怒りません」とインプットできるようにしておく。それでこころが変わってしまいます。

 

一般人にわからないのは、なんでこころが変わってしまったのか? というところなんですね。そこでお釈迦様が謎を解くんです。

なんで人は念じるのか?(3)こころにつく癖

に続きます)

 

関西定例冥想会 2011.05.04

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1387645.html よりメモしました。

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