「繰り返し念じるということ」
(スマナサーラ長老法話・関西定例冥想会 2011.05.04
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1387645.html よりメモしました)
宗教の現象でよくあるのは、何かを繰り返し繰り返し、念じる・唱える、ということなんですね。
インドにもたくさん宗教がありまして、それを一つにまとめてヒンドゥー教としています。そのたくさんの宗教でも、繰り返し念じるということをしています。
日本でも同じくあります。何かを繰り返し繰り返し、唱える。
現代社会をみても、いろいろな宗教があって、この社会状況からどんな宗教があらわれるのかということもわかります。全体的にいえば、権力欲と商売ですね。
昔はね、社会的な問題があって、その問題がどうにもならないから、そこで、宗教に安らぎを得ようとしたこともありました。社会的に大変な問題が起こるということは、どんどんなくなっていきました。人間が、政府が悪ければ、これにぶつかって壊しちゃえばいいんじゃないかと思うようになったんですね。
それから、自然的な問題も、自分が何とか頑張れば豊かになるだろうと、そういうふうに人間の考えが変わっていくと、宗教っていうのは社会の問題に対してよりは、まぁ、商売に使いましょう、ということになったんですね。それと、権力ですね。
権力を握るために宗教を使うということなんですね。
それは、西洋の、中東のほうの宗教というのは、独裁的政権というか、独裁的に人を支配するために使う、一つの手段なんですね。
面白いことは、宗教はそういうわかりきった目的で作るのに、なんで念じるんですか? と。それを、そういう宗教の人々に聞いてみると、答えがわからないんですね。「これがありがたいんだ」と言うんですね。「ありがたいから、念じる」と。
日本で有名なのは、題目ですね。一行ですね。
それから浄土系は、かなりいろいろ、政治的なところで権力のところで宗派に分かれていますけど、誰が誰の金を儲けるかと言うところで、真宗やら浄土宗やら分かれますけど、ここでも短い文章を唱えるんですね。それで宗教おわり。それは短い文章だけじゃなくて、長い文章もあります。
それから、宗派に関係なく、どんな大乗仏教の方でも、般若心経を唱えるんですね。これはちょっと長いんですけど、一万回唱えることはしませんね。
題目は一万回唱えて、今度の選挙で勝ってやるぞ、ということでやっています。
新興宗教の場合でも、懺悔からはじめて五戒まで唱えるものをあるんですね。それからどんどん、大乗仏教のお経を唱えて、真言を唱えて、終わり、というね。その場合はかなり派手に、合唱で、ちょっと時間をかけて一つの音楽会みたいには、やっています。その場合は短い文章を唱えるということではないんですね。
だったら、われわれはそれを調べなくちゃいけない。どうして、宗教になってくると何か唱えるのか、と。その意味は何なのか、と。そこは、人間がつくるものだから、何か科学的な根拠・心理学的な根拠があるはずなんです。たとえ科学を知らなくても、人間ていうのは、何か結果がなければならないんですね。
だからね、経験的な結果はあります。だって、なんで人間はわさびを食べるんですか? 私が思うのは、このわさびを最初に食べたやつは何者か? と。最初にわさびを食べて発見した人は、当然、科学者でも生物学者でもないでしょう。そこらへんで、仕事もしないで山をうろうろしていた人でしょうね、おそらく(笑)。
まず、わさびをかじってみたと思いますよ。そこで、死にそうに怖くなったでしょうね。しかし、時間がたっても死んでもいないし、それからいろいろ考えて、今では日本食の一つになっていますね、わさびは。
だから、わさびを食べても辛いだけですけど、こんな爆弾のようなわさびを一緒に食べたら、気持ち的にですけど、食べ物の悪霊に憑かれることはないだろうと思った可能性はあります。
今は科学的に実験して、わさびに細菌を壊す力があるだろうかと調べることができます。
そのなかで、にんにくは、かなりその試験に合格していますね。昔からも、にんにくというのはドラキュラを追い出すために有効なものだと考えられていましたし。
にんにくはいろんなところにぶら下がっていますよ。ヨーロッパの国々でも。
現代になってにんにくを調べてみると、やっぱり、見事に殺菌力がすごい。カビなんかも生えてきませんね。
それで、昔の人々は、にんにくを科学的に知って、よくわかった上で、じゃあこれから食べましょう、となったわけじゃないんです。ただ、日常生活でにんにくによっていろいろいいことがあったんだから、じゃあこれからも続けてやりましょう、ということになるんですね。
だから、伝統的にわれわれがやっているものは、いきなり、「こんな古いものは捨てちゃえ」ということはできないんです。
やっぱり、調べなくちゃいけない。
理由が、まるっきり無意味だったら、続くはずがないんです。
それでも迷信は残りますけど、日本の悪霊っていうのはね、塩ひとかけらをすごく怖がるでしょう。塩が怖いのに、どうやって人間に乗り移れるのかわからないんですね。人間の体は塩の塊ですけどね。血液やら、高濃度の塩でしょう。それでも悪霊が憑くんですからね。
それなのに、塩をちょこっと置いておけば、悪霊が出てこないというね。
いまだに、神社でも、お葬式でも、この塩を使っているんですけど。
そこは、明確に屁理屈な迷信ですけど、でも、塩は悪霊払いに使ってきました。それというのも、塩は殺菌作用があるし、食べ物は腐らない。腐ったものを食べると人間は病気になるでしょう。病気になるのは、昔は悪霊の仕業と考えられていたでしょう。そこで食べ物に塩をかけておいたら、腐らないから食べても病気にならない。ということは、悪霊が宿らなかった、ということになるんですね。
そういう理屈で、塩は悪霊を払ってくれるという信仰ができたんですけど、科学的に調べてみれば、そうではなくて、食べ物は細胞でできていますから、そこへ塩をかけると、その細胞が壊れなくなって長持ちするということになります。
そういうふうな現実がありますから、今回は、「なんで人は念じるのか?」ということを調べたほうがいいんじゃないかなと思います。
(なんで人は念じるのか?(2)繰り返しでこころが変わるに続きます)
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あり得ないことを念じると頭が悪くなるんです。幻覚が起こるんです。しかし脳には繰り返しリピートする必要があります。それは心理学的なものです。
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