(なんで人は念じるのか?(4)こころの法則を悪用したら…より続きます)
念じることは、気をつけなくてはいけません。
これは迷信じゃないんです。
こころの法則からみると、かなり気をつけなくちゃいけないんですね。
薬だからありがたい、じゃないでしょう。薬は無数にあるでしょう。すべて使ったら人間は死にます。だから医者は調べて、無数にある薬の中からいくつかを推薦する。さらに、一日10ミリグラムだけ飲むとしたら、倍の20ミリグラムはかえって体に良くない。
薬と同じく、ちょっと間違ったら命とりです。徹底的に気をつけなくてはいけません。
毒にも薬にもならない薬は、誰でも薬局のカウンターで買えます。しかし、薬としての機能が高いものは、医者が書いた処方箋がないと売ってもらえません。処方箋なしに売ったら犯罪になります。
そういうことで、念じるということはとても気をつけなくてはいけない。
仏教はなんでも批判するんじゃなくて、科学的にみています。
そこで念じるという場合は、こころっていうのは癖がつくものだから、そこを注意しています。
「念じる」ということがなければ学問が成り立たないんですよ。教えただけでは頭が学ばない。繰り返し念じさせなければならないですね。
子供たちに計算を教えるのは、結構苦労するでしょう。繰り返し問題をやらせて、無茶苦茶宿題を出してあげて、そうするとできるようになるんですね。できるようになったものはもう取り消せないでしょう?
自分の子供が文字を読めるようになりました。繰り返し読む練習をした結果。そのあと、読めない状態に戻りましょう、としても不可能でしょう? もう後戻りすることはできません。チャラにすることはできません。それはこころが変わってしまったんです。
子供に足し算を教えたら、初めはまるっきりわからないんです。でも繰り返し足し算をやっていくと、できるようになるでしょう。それから、足し算ができない状態に戻せる? 戻せませんね。
わたしたちは日常茶飯事に、この念じることをやっています。同じことをやっています。そうやってこころを、変えて、変えて、いくんです。ただ残念なことは、そちらに、ブッダが発見した道徳観が入っていないんです。だから世の中で、いろいろなマインドコントロールだとか、なんでもあります。人殺しはキリがない。世界は不幸そのものです。だから無知な世界だとブッダが言うんです。
ブッダは「学べ!」と。こころの法則っていうのを。
学んだら、こころにこういう法則があるっていうことをわかるでしょう。そしたら、慈しみにもとづいて使いなさいと。
念じることは誰でもやっています。宗教は関係ありません。無神論者もやっていますからね。繰り返し、繰り返し学ぶことを。
ですからそこは、こころの法則です。動物にもこころがあるんだからね。動物も同じことでしょう。繰り返すとできるようになります。
動物園で芸をやっている動物たちはね、自分たちが何をやっているかさっぱりわからないんです。だって動物の人生に関係ないことでしょう。誰かがビーチボールを投げたら鼻で受け取るとか。あれは何のため? 魚を投げたらぱくっと取るのはわかりますよ。
犬に芸を教えてもかなりやりますし。猫はやりませんけど。猫はかなり独立しているんです。
どうやって動物たちに芸を教えたかというと、あるパターンを作るんです。そのパターンを毎日必ず繰り返すんです。動物園は一般人に公開してなくても、芸をやる動物は決まった時間にいつも芸をやっています。観客は誰も見ていなくても。
なんで毎日やらせているんですか? たまには休ませてあげましょう、というのもありません。
理由は、動物も生き物でこころがあるんです。だから繰り返しやらせるとできるようになっちゃうんです。できたことが動物の命に関係ないものだったら、忘れてしまう可能性があります。命に関係あるものは、忘れることは不可能です。
人間が飼っていて野生にかえした動物は、どうも人間に飼われていた癖が残るんです。
「神は存在する、存在する……」と繰り返しちゃえば、人の頭はそのように組み立てられちゃうでしょう。念じるものが現実であろうか、嘘であろうか、関係ないんです。こころが変わってしまいます。そうなると大変なことになります。元に戻れなくなっちゃうんです。
だから、事実っていうのは客観的なデータで調べて、データがなければ放っておけ、ということで、お釈迦様は終了します。しかし、こころのことは、気をつけろよと。
(なんで人は念じるのか?(6)ブッダが勧めた「念じることば」
に続きます)
関西定例冥想会 2011.05.04
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1387645.htmlよりメモしました。
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