徳のある人・ない人
花を美しく活けるように、我々は人生をアレンジメントしなくてはいけない。
人間に生まれたならば、徳がある。徳がないということはない。しかし、それをアレンジメントしないといけない。ダンマパダ:花輪の譬え
善行為することで、人生が美しく整う。
— 梛 (@jtba_talk) October 18, 2015
ダンマパダ53
Yathāpi puppharāsimhā, kayirā mālāguṇe bahū;
Evaṃ jātena maccena, kattabbaṃ kusalaṃ bahuṃ.
「花の山から、人は花を選んで美しい花輪を作る。そのように、生まれてきた人間はたくさん善行為するべきです」(スマナサーラ長老訳)
つまりこれは、
「善行為をしなさい。
善行為することで、プロが生けた作品のように、人生がきれいなフラワーアレンジメントになります。
一般的に人は、善行為をしないで、自分で餓鬼道を作って生きている」という意味だそうです。
今回学んだのは、
「Producer of life」、人生にはプロデューサー(制作者)がいる、という観点でした。
プロデュースはお金を出す人であり、人生において「プロデューサー=業」である、と。
でもプロディーサーが映画を作るわけじゃない。作品は監督の腕次第だと、長老は言います。
(以下、縦線引用部分はスマナサーラ長老の法話よりメモしたものです)
問題は、監督が「盲目の『感情』」なんです。
怒りが出たら怒りに負ける。欲に負ける。
監督の言う通りに人間が動いて、その結果、プロデューサー(業)が儲かっちゃう。
業が悪いんですか? いいえ、業は悪くないんです。監督が悪い。プロデューサーは金を出すだけだから。
いい作品を作るのは監督の仕事です。
我々の人生で悪いのは監督(=感情)です。
苦から苦になる循環がある。
資金(業)運用は貪瞋痴がやっている。だから人生がダメになる。
そこで理性と智慧に運用を頼むことで、人生が成功する。
そういうことで今日の話は終わりです。
時間が余っているから、別の話をしましょう。
えっ、終わり? まだ始まって30分くらいですけど……。
人間にはなぜ優劣があるのか?
今日のテーマはこれで終わりです。ここから違う話。
人間になぜ優劣があるのか?バラモンとの対話より。
釈尊:業が生命の優劣という区別を行なうのです。
— 梛 (@jtba_talk) October 18, 2015
経典は、Cūḷakammavibhaṅgasuttaṃ *1
(中部 第135経 小業分別経)*2
この経典は、「人間の優劣はなぜあるか?」という質問を、スバという青年バラモンがお釈迦様に尋ねたものです。
スバ青年が、なぜ人間のあいだに、①短命の人、②長寿、③病弱、④健康な人……と全部で14項目の相違の原因について聞きました。
そこで、お釈迦様の答えは、
「業が生命の区別を行います」
というものでした。業が生命の優劣の原因だとおっしゃるのですね。
それでスバ青年は「?」となって、「どうかもっと詳しく教えてください」と頼んだところ、お釈迦様が詳しく(恐ろしい)解説をしてくれました。
1短命←殺生の業(残酷に殺生を好む性格の人は、死後地獄・不幸な境涯に生まれる。人間に生まれたら短命)
2長寿←不殺生の業(生命を慈しむ・一切の武器を取らない性格の人は、死後天界に。人間に生まれたら長寿)
3病弱←生命を虐める、害を与える業
4健康←生命に優しい人、害を与えない人
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 10月 18
5見苦しい人←怒りっぽい、妬みを持つ性格
6美しい人←怒らない、妬みを持たない性格
※これらの項目は一回の行為ではなくて性格になっていることを指します。悪い性格を放置したら、死後も不幸になります。
— 梛 (@jtba_talk) October 18, 2015
なにがあっても微笑んでいる、”怒らない”ということをモットーにして生きるだけで、死後、天国に生まれるのです。
7みじめな人(存在感が全くない人)←嫉妬の業
8威力がある人(パワフルな人、存在感がある人)←嫉妬しない性格の業
— 梛 (@jtba_talk) October 18, 2015
9貧困←物惜しみの業(施すことに反対する性格)
10富豪←施しの業(施しを好む性格)
人々に道徳を教える真面目な修行者たち(沙門バラモン)に食べ物や住む場所などを施すことは大きな社会貢献です。
— 梛 (@jtba_talk) October 18, 2015
11卑しいカーストの人(社会的地位の低い人)←頑固・傲慢の業(礼儀作法のない性格)
12優れたカーストの人(社会的地位の高い人)←柔和で傲慢ではない業
13無知な人←真理・道徳を学ばない業
14智者←真理・道徳を学ぶという業
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 10月 18
面白いなと思ったのは、「2長寿←不殺生の業(生命を慈しむ・一切の武器を取らない性格の人は、死後天界に。人間に生まれたら長寿)」というところ。
この箇所を片山一良先生訳の中部経典から引用してみます。(p190)
青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、殺生を捨て、殺生を離れるものとなります。
棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。
このように遂行し、このように引き受けたその業によって、彼は身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれ変わらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも長命の者になります。
「 棒を置き、刀を置き」、つまり、「一切の武器を取らない」ならば善業になるということです。日本の戦争を放棄した憲法は、いやいやでも守っていると悪業を積まないということでは。「今の国際情勢を考えたら現実的ではない」とよく聞かれる意見ですが、真理は世俗の事情で変節してくれないのだから、世俗の事情を真理にできる限り近づけるのが自然ですね。
この14の分類については、人間のタイプを極端な例であらわしたものだそうです。
でもふつう、わたしたちの性格は善と悪が混ざったもの。一般的に「徳がある」と言う場合は、「善の性格がちょぴっと多い」というだけのこと、とのことです。
この経典の結論は、「生命の生き方によって、性格によって、業が生じる。」ということだそうです。
つまり、初めに業ありきではなくて、業を作り出す「行い」が先にあるわけですね。
だからその法則を利用して、
「自分の人生を自分でプログラミング」しよう、
とスマナサーラ長老。
でもどうやって??
「これからの人生は変えられます」
悪業を善業に変換することは不可能です。
善行為をたくさん行うことで、悪業の力は弱くなります。薄めることができます。
たくさん借金があっても、たくさん働けば、借金の負担は相対的に小さくなる。借金がなくなったわけではない。
断言的に人は善行為をするべきです。繰り返し善行為を行うことで自分の性格になります。
ポイントは繰り返すことです。
繰り返す、ということは、習慣化か……。
具体的に何をするのかというと、
「人生を変えるプログラム」
十善と十悪があります。*3
布施、戒、冥想という三つのステップもあります。
五戒を守ると、過去の悪業の一部は実るチャンスを失います。
慈しみを実践すると、さらに過去の悪業が出るチャンスを失います。
ヴィパッサナー実践で、悪業の力が弱まり、解脱に達します。
解脱に達しても、肉体は過去の業が作ったので、それなりの結果は受けなくてはいけない。寿命、幸不幸、死などは業の管轄で、変えることはできない。
解脱者は将来の善悪業の力を無にします。(参考:感興の偈)業を変えることはできても、リミットも理解しましょう。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 10月 18
感興の偈 ⇒*4
最後に……
人間っていうのは、相当な善業で生まれます。天国に行くこともプロデュースできたはず。
誰だって、いっぱい徳があるんです。その徳を、善行為することで美しいフラワーアレンジメントを作るように、美しくプログラミングすればいいんですよ。
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(追記)……誰でも、山盛りの花のように業がある。それは人間も「犬猫でも同じだ」そうです。気をつけなくちゃと思ったのは、自分が健康でお金にも一応困っていないからと、「わたしには業がある」「あの動物(人)には業がない」と、差別意識を持ってはならないということ。
業の量も質も、どんな生命であっても同じで、ただ「ログイン」した業が、今回たまたまこうだった、ということのようです。
この点については、講演後の質疑応答でスマナサーラ長老の回答に詳しいです。その記事も後日このブログに書く予定です。
*1:5. Cūḷakammavibhaṅgasuttavaṇṇanā
http://tipitaka.org/romn/cscd/s0203a.att3.xml
*2:
*3:
*4:Pathama udāna (歓喜の言葉)
‘‘Anekajātisaṃsāraṃ, sandhāvissaṃ anibbisaṃ;
Gahakāraṃ gavesanto, dukkhā jāti punappunaṃ.
‘‘Gahakāraka diṭṭhosi, puna gehaṃ na kāhasi;
Sabbā te phāsukā bhaggā, gahakūṭaṃ visaṅkhataṃ;
Visaṅkhāragataṃ cittaṃ, taṇhānaṃ khayamajjhagā’’ti. (dha. pa. 153-154);
http://tipitaka.org/romn/cscd/s0101a.att0.xml
日本語訳「無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻をさまよってきた、家の作者を探し求めて。更に更にと、生まれ変わるのは苦しいことである。
家の作者(渇愛)よ、汝の正体は見られたり。汝が家屋を作ることはもはやあるまい。汝の梁(煩悩)はすべて折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。形成するはたらき(行)からこころは離れ、渇愛を滅ぼしつくした」
「日常読誦経典」日本テーラワーダ仏教協会発行 P28より