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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

預流果(よるか)と有身見(うしんけん)

東京月例講演会「徳のある人ない人、あなたはどっち? こころを豊かにする財産運用」2015.10.18(日) 以下はこの講演後の質疑応答です)

質問

「覚りについて教えてください。預流果(よるか)に覚った時、有身見(うしんけん)という煩悩はどう変化するのですか?」

 

回答(スマナサーラ長老) 

有身見は錯覚だから、なくなるんです。変化しません。はじめからそれは錯覚です。今は錯覚であると分からない。それだけ。

 

例えば虹は、光の屈折だとわかっているでしょう。だから昔のように虹に乗って誰かが来るとかそんな話は信じませんでしょう? だから、初めから虹っていうのは目の錯覚です。それで終わり。

 

でも今も虹があらわれます。

だから、有身見が錯覚だと分かっただけです。なにも変化が起こるわけじゃないんです。

 

質問者「預流果における有身見が、錯覚だということで、その錯覚がなくなったあとに、一来果(いちらいか)における有身見もまたなくなるのですか?」

 

一来果には有身見がないんです。一来果には自分がいるんだという、そういう気持ちしかないんですね。これは有身見じゃないんです。変化している自分、ということになってくるんですね。

 

一来果になってくると、なくなるのは、欲と怒りです。

だから、わたしには実体がありません。それでも生きている、ということでしょう。実体がないんだけど変化しつつ生きている。

生きているんだったら、怒らなくちゃいけないし、欲を出さなくちゃいけなし。

 

それでまた冥想して、「これはマズいや」と執着が減るんですね。肉体とこころに対して執着が減ったら、その分、怒りと欲が減っていくんです。不還果(ふげんか)できれいさっぱり消える、という順番です。

 

で、すべて無我だと、漫(まん)、ですね。それが消えるのが阿羅漢果(あらかんか)です。

 

下記講演会の質疑応答よりメモしました。

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