(生きることは感覚だ|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(2)から続きます)
今から経典の中身を説明しますが、感覚が苦であるということは変わらないんです。生きることは苦であるとお釈迦様がおっしゃったんだから、感覚が苦でないといけません。しかし、そこを言っちゃうと、仏教は極端なペシミションだ、となっちゃいますね。そういう一般的に使われる主義は成り立ちません。主義っていうのは、何かに比較して使われる言葉で、いつでも、一部が合っていて、一部が合っていないと決まっています。
共産主義は素晴らしい、とは完璧に言えません。民主主義が素晴らしいとも完全に言えません。いいのは一部です。主義ですから。いいところもありますよ。悪いところもありますよ。どんな主義もそんなもので、一部だけ見たら「主義」が成り立ちます。全体的にみると、すべての主義が消えるんです。だから、楽観主義、悲観主義とか、なに主義にもならないのが仏教です。人間の定義に入りません。
仏教は宗教でしょうかね? と聞くのなら、その定義には入らない、という答えになります。では宗教じゃないなら科学でしょうか? と聞くなら、やっぱりその定義にも入りませんね。世間のどんな尺度にも入らない。そういうところは、哲学的に考えるとものすごく難しいんですけどね。学者の方々は、何かの世俗的な主義に仏教を入れて理解したいと思っているんですね。自分が仏教のほんの一部をとって、それですべてを分かったように気持ちでいる。
数学は巨大なすごい学問ですけど、自分にわかる範囲は? と探したところで、「足し算ならわかる」とする。そこで、その人に数学の定義は? と聞いたら、「足し算です」と堂々と言ったらどうですか。数学は足し算のことじゃないでしょう。人間が一生をかけて勉強する、ものすごい巨大な学問でしょう。
自分が知っている範囲で理解しようとしてしまうと、足し算だけ知っている人が「数学は足し算である」と説明することと似ていますね。笑い話になっちゃう。仏教について語る本は、だいたいがそのようなものになっています。
別なルートでは、実際に学んで、味わって、経験して、修行して、理解して、本を書く人々もいます。その人々はどうしても、主流ではありません。サブカルチャーなんですね、仏教の本当のことをしゃべるのは。メインカルチャーはお祭りすることです。
生きるとは、感覚があること。感覚が基本的には苦である、と。だから感覚は一定しない。変える、変える、変える……。「変わる、変わる」でもあって、「変える、変える」でもあります。変えなくても変わりますが、そこはあまり気に入らないから、われわれは考えて、感覚を「変える」ことにしているんです。テレビ、ラジオ、いろいろ娯楽があるのは、感覚を変えるためなんですね。「変わる」のは気に入らないんですね。感覚は止まりません。それなら変えましょうと、努力しています。
経済発展、科学発展など様々な発展は、変わるんだから変えることにするだけ。変わるということは「変えられる」ということになっています。変わらないものは、変えられませんからね。しかし、すぐ忘れます、変えてもね。そこをみんな忘れちゃいます。それを忘れるんだから、滑ってしまって、また苦しみのどん底に落ちたりする。
われわれは、感覚を変えますが、変えることに成功しても、その感覚もまた変わりますよ。変わることは普遍的な法則で、「変える」ことは、その人ぞれぞれの意志でやればいいんであって、宇宙的に法則ではありません。
変えることは各生命が、自分の力の範囲で変えるだけ。生命っていうのはそんな程度の世界です。見てみると、ものすごくシンプルなんです。わたしたちは、でっかいビルを見てびっくりしたり、iPadとかiPhoneとか、「わぁ、すごいや」と言いますが、なにもすごくないんです。あるリミットの中で、微妙にちょっと変わっただけです。
科学商品の発明を見ると、最近の炊飯器がありますね。あれはビックリですね。今まで窯で、まきでご飯を炊いていた時は、結構苦労しました。炊飯器ができて、みんなびっくりして「なんて便利だ」と。いろいろ問題はありましたけど、一応ご飯は炊けます。
それから、さらに、さらに研究して、開発するんです。炊飯器は10万円~15万円のものもあるみたいですね。昔、土鍋でご飯を炊いた時の味に戻りたがっているんです。それで、ムチャクチャ金がかかっちゃう。ややこしいんですね。わたしも一つ買いましたからね(笑)。
技術が進んでいるのか、金をかけて退化しているのかよくわからないでしょう? なんでiPadが、iPhoneが、人気があるのか? わたしたちは本のページをめくって読んでいたでしょう。それに戻りました。でもみんなびっくりしちゃって、「すごい、iPadは!」という。「進んだんですか? 退化したんですか?」と聞きたいです。
子どもたちも、iPhoneなら幼い子供も使えます。指で操作するんだから。結局は、以前の方法に戻ってしまいますね。デジタルのほうが抜群にいいと言いながら、アナログな結果を出しているという。ということは、結局、人間は同じこっちゃですね、われわれは。感覚で生きているだけで。頭で考えて文字を追ったり計算したり、というのは余り感覚的じゃないんですね。高いお金を出して、普通の感覚に戻ろうとします。
とにかくそういうふうに、感覚が変わるが、一人一人の生命は放っておくとろくな変わり方をしないんですね。とっても悪い方向へ変わるんです。それは感覚が苦だからです。放っておくと感覚が変わるんだけど、苦へ、苦へと変わっていきます。これが嫌だから、変えることにしましょうとなっているだけで、感覚を変えることは、虫もゴキブリも、ミミズもやっています。
自分にできる範囲で感覚を変えるだけ。人間も自分の能力範囲で、感覚を変えているだけ。その能力もそれぞれ違いますから、自分にできる範囲で感覚を変えて、「良かったですね」「大成功ですね」と言っているだけ。音楽家が、音の感覚を聴覚に変えているだけ。誰かが作った音楽がヒットしたら、「どうだい」と自慢したりします。大成功だと、言っているだけ。それはその人の能力範囲で感覚を変えていることです。
それでは、感覚は苦であるという経典に入ります。
(無価値論|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(4) に続きます)
*この記事は、スマナサーラ長老によるパーリ経典講義「相応部六処篇2受相応2独坐品独坐経」http://gotami.j-theravada.net/2010/06/ustreamdhammacast.html
を聞いて書きました。
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