ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

好むことなく、嫌うことなく|六根を追う冥想

スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2015.11.08

https://www.youtube.com/watch?v=qz90gPfk3hE よりメモしました)

 

何回も話を聴いて、冥想実践に入っている方々に、観察の仕方を説明します。

 

お経をあげる方々は知っている経典が一つありまして、「過去を引きずってはならない、未来はまだ来ていない」という経典ですね。「日日是好日(にちにちこれこうにち)」という。*1

 

Asaṃhīraṃ asaṃhiraṃ, taṃ vidvā manubrūhaye. (アサンヒーラン アサンクッパン タン ヴィドゥワー マヌブルーハイェー)という一行があるんですね。それは冥想実践になる文章なんですね。「執着することなく逆らうことなく、生きてみなさい。そうする人が、成長するんだ」という意味です。

 

これはどういうふうなことかというと、わたしたちが生きるということを、認識世界から説明すると、目で見る・耳で聞く・鼻で嗅ぐ・舌で味わう・体で感じる、それから、それよりすっごい流れの「考える」というものがありますね。これは膨大で激しい流れです。そのなかで、妄想する・悩む、あれやこれやといっぱいあるんですね。

 

それから六番目の、眼耳鼻舌身(げんにびぜっしん)以外の意識の流れ、それがわれわれを支配しているんですね。見るときは、見たくて見る場合もあるし、見えるだけの場合もありますね。聞きたくて聴く場合もあるし、聞こえる場合もあります。五感の、五根のことはちょっと置いておきましょう。

 

生きるというとき、われわれは行為をするんですね。その行為が思考の流れなんですね。感情の流れ、妄想の流れ、膨大な流れなんですね。頭の中で。これはごちゃごちゃ激流で、激しく流れていて、なんの管理もできない、普通は。その流れによって指令されるんですね。こういうことをしゃべりなさい、と。あまりにも流れが激しいから、仕方がなく、ダラダラとしゃべっています。しゃべると、思考がどんなふうに流れているか、第三者が観察すればわかりますね。

 

それから体を動かしたりする。そうやって思考の流れで行為をして生きているんですね。生きるということは、その六つの働きなんですね。そちらに、「わたし」という何か実体はないんです。ただ六つの流れがあるだけです。

 

それで、冥想を実践する場合は、それを観察するほうに持って行くんですね。目があるから見える。見えるものに対して、放っておく。ああ、もっと見たいなぁというふうに、関わっていくことをやめる。あるいは、見たものに対して、逆らって攻撃的なアプローチをするんですね。こころがそうなるんですね。六番目の流れが。見たものに対して、「これは何なのか。見たくない」と。

音に対しても同じことで、引っかかっていくか、いわゆる執着的にいくか、攻撃的にいくかという。

 

この二つは、冥想をいくらかなさっている方には、発見できると思います。体に何か触れると、その感覚に対してわたしは握りしめる・執着する方向にいっているか、徹底的に壊す方向にいっているか、というね。

 

Asaṃhīraṃ asaṃhiraṃ(アサンヒーラン アサンクッパン)というのはそういうところなんですね。放っておきましょうと。そこで、放っておけない自分がいるんですね。執着したい自分と、攻撃したい自分が。「自分」、つまり、流れがそうなっているんですね。ですから、見ても、放っておく。何か聞こえたら「聞こえている」。何か味わったら「味わっている」。おいしい・マズいは関係ない。執着的になっちゃうと、おいしい。攻撃的になっちゃうと、マズい。これを両方やめる。ただ「味」と。体で感覚を感じている。耳で音を感じている。

 

これは六根に基づいてヴィパッサナーをやる方法なんですね。思考もなんか、別な流れとして見て、「ああ、なんか思考している」と。感情があって、流れている。怒り・嫉妬・落ち込み・憎しみ、とかね。なんか自分と関係ないものとして、この六つの流れを見ているんですね。それで、ドンドン、ドンドン、智慧が現れてきて、真理に達します。ということは、最終的に、日本の大乗仏教の言葉で言うならば、「空(くう)」あるいは「無(む)」ですね。自分と言うものがあると有(う)になります。自分自身が錯覚なんですね。この流れ六つで一時的にあらわれる、一つの幻覚なんですね。

 

だから、何かと何かが触れたら、何かが現れるでしょう。それは実態がないんですね。例えば今、音がない。そこで、ここにお鈴(りん)があってスティックがあって、触れたら「チーン」と音が鳴る。それで「あっ、音だ。実態だ、これが!」と言っても、ほら、もう消えた。

 

それは、お鈴にしてもスティックにしても、原因の何かと何かが触れたら、あるかのごとく現象になるだけなんですね。だから、目があって、目に何か触れて認識が、視覚が生まれる。それだけ。そちらに「わたし」がいるわけじゃない。視覚は視覚です。聴覚は聴覚です。すぐ消える。すぐ消えるんだけど、意で、さらにさらに認識し続けちゃうんですね。

 

だから、自分という実感が消えたところなんですね。この六つの流れをじーっと見ていって、こころがね、掴むこともなく・攻撃することもなく、という修行をするんです。この修行をしなくちゃあかんですね。なぜならば、今の流れは、掴まえようか・攻撃しようかと、その二つをずっとやっているんですね。無知が働いていますけど、修行では無知はあまり具体的に実践できないんだから、欲と怒りのアプローチをチェックしていくんですね。それで、無知だからやっているということに、それから気づくんですね。だから、無知に気づく時点で、自分という実態は成り立たないと発見していきます。

 

そういうふうにときどき頑張ってみてください。こちらで教えている実況中継、冥想っていうのはその一つの方法で、だいたい実況はいつでも役に立ちますよ。でなきゃ、いつでも思考が入ってきて、煩悩の世界、妄想の世界、存在しない世界へ行ってしまいますからね。

 

モノを見ているとき、「わたし」が見ている、というわけでもなく、対象が美しい、というわけでもなく、そのとき、ただ「見える」という感覚があるんだとそれをチェックしていると、見えるという感覚が、首を回すたびに変わっていくんですね。

この視覚がね。視覚が固定していないんです。そこで首を左から右に回すと、視覚がずーっと変わっていっちゃう。それをまとめる自分はいないんですね。ただ、連続的なだけなんですね。そこで耳も同じで、ずっと変化して流れなきゃ、聴覚が生まれません。今しゃべっている音にしても、微妙なものすごく細かい波長で、空気が振動しているだけ。すごい大量に、周波数が高いでしょう。それに合わせて聴覚が生まれては消えて、生まれては消えていくだけ。まとめて束にして、聴覚と言っているだけなんですね。

 

だからこの、眼耳鼻舌身に触れる情報をそうやって、見えている・聞こえている・嗅いでいる・味わっている・感じていると、そういうふうにチェックする。そこで言語がちょっと邪魔になりますから、これを主語がない言語で観察するほうが正しいんですけど、日本語では難しいし、わたしにはそこを助けてあげることはできないんですね。

 

パーリ語だったら、自分という主語がなく、第三人称の言葉でずっと教えられるんですね。

 

聴覚がある。そこは「聴覚」と取ったら、すぐに消えるものなんです。「わたしはきいている」と思っちゃうと、妄想の世界であって、ブッダの世界・修行の世界ではないんですね。「わたしはきいているよ」と思ったら、煩悩の世界なんです。聴覚がある、とすると、わたしも他人もないんです。視覚がある・味覚がある、または、聴覚の感覚、味覚の感覚、と取ってもいいでしょう。

 

そういうふうに六根を取って、冥想する方法もあります。まぁ、理解できる範囲で頑張ってみてください。

 

(動画では、はじめ~15:30まで)

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