(カエルのお父さん-ブッダが説く諦めとは何か(12) から続きます)
死ぬっていうことは、誰にとっても苦しいわけじゃないんです。「あ、そうか」と思う人にとっては何のこともないんです。「おなかが空いた、じゃあご飯を食べる」。そのうち、体が壊れちゃったら、「ああ、死ぬのか。ああ、そうか」。そんな程度なんです。
無常を知っている人には、自分が死ぬという現象が、「のどが渇いちゃった。じゃあ水でも飲みましょう」という程度の話なんです。しかし、死にたくないと思う人にとっては、おそろしい苦しみなんです。また、諦めていない人は、「会社はどうするのか。わたしが死んじゃったら経営できるのか。財産はどうするのか。やっぱりどうしても孫の結婚式には参加したいんだ」というのは、諦めていないんですね。
たとえば、娘さんがいる人がいる。わが子が結婚する年頃になって、自分が病気になる。その病気は治りそうにない。ああそうか、自分は死ぬのか、と言って死ねないんですね。「やっぱり娘の花嫁姿を見てから死ねればいいのに」と、また悩んじゃう。なのに、いくらでも親がそう思っていても、世の中では、子供は勝手に結婚して子供まで抱っこしてきたりする。だから、何に執着するんですかね。
死ぬことも、諦めることを知らない人々にとっては、大変な苦しみなんです。そういうことで、われわれがけっして諦めてはならないことは、こころの成長。こころを清らかにすること、煩悩から。怒り嫉妬憎しみから。これは絶対あきらめない。成功するまで粘り強くやる。
幸福の計画、それは粘り強くやる。一切の生命も、自分とまるっきり同じだと。アリも昆虫も、ミミズも、天皇陛下も、アメリカ大統領も、神々も、あらゆる生命がみんな同じだと。それをこころでしっかりと経験すること。その経験が起きるまで諦めないんです。
それから、智慧があらわれること。観察して、観察して、なんか智慧があらわれるまで頑張ってほしい。一つサンプルを教えたでしょう。子育てと、その結果として頭に現れる、なんとも言葉にならない、あのへんな気持ち。カエルのお父さんが命がけで頑張っていることも、さすがだなと思いつつ、なんかむなしい。
「あなたのご感想は?」と聞かれても、ようわからないんですね。あの言葉にならない、あの理解が、智慧なんです。智慧に言葉がないんです。そうやって観察して、観察して、智慧があらわれること。智慧があらわれるまで、頑張ります、粘り強く。
最後のポイントは、生きることは苦しみなんです。その苦しみを乗り越えること。成功するまで諦めてはならないんです。
そういうことで話は全部終わりですけど、わかりやすく言えば、「善い人間になることだけは諦めません。他は全部諦めますよ、適当に」ということです。
「家はどうですかね?」と聞かれたら、家が、善い人間になることと関係あるかと言うと、ないんですね。自分の子供は? 子供たちに食わせてあげたんだからと言って、それで善い人間になるかというと、そうじゃないでしょう。だからそれも、諦めますよと。
そういうことで、善い人間になることだけ諦めないで、他は全部、適当で、明るく気楽に、諦めつつ生きてみてください。毎日、諦めるものは出ます。仏教の言葉で言えば、昨日を諦めてください。明日に期待しないでください。今日は思う存分、やるべきことをやってください、というブッダの言葉になります。
(おわり)
最初をもう一度読む→ブッダが説く諦めとは何か(1) - 瞑想してみる
関西定例冥想会 2012.07.15 ブッダが説く諦めとは何か
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1766862.html より聞いて書きました。
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