(仏教の、その安らぎって何なのか? - 新年法要2016(1)から続きます)
国を広げて、ほかの国まで侵略していくと、人殺しをしなくてはいけないから、
アショーカ王がすっごく「なんだこれは。なんのためにこんなことをやっているのか」と疑問があって、悩んでいた。人の国に行って、殺して、家を壊して、これはどういうことかと。すごく、なんか悩んでいたとき、まだ比丘にもなっていない沙弥の姿が見えた。小さい子供ですよ。9歳、10歳程度の子供が、道路を歩いているのを見たんですね。
宮殿の中から、通りを歩いているその子供の姿を見て、安らぎを感じたんです。
「何だこの人は」と。それが本物の仏教なんです。それで、宮殿に呼んだんですね。
王が、なんか安らぎを感じて仕方がないんですね。
別世界を見ている。真理の世界を感じたんですね、体でね。沙弥は宗教家だからね、王が「あなたは適当なところに座ってください」と言ったんです。そうしたら、このちっちゃな子供が周りを見て、「自分より『年上』の人がいるのか」と。誰もいないんです。この子供は経典では七歳ということになっていますが、でも、覚っているんです。
そこで何の躊躇もなく、王様の手につかまって、玉座に座ったんです。
玉座は高い椅子ですから、届きませんからね。王様以外の人が座るところではありません。そのことでなおさら、王は楽しくて仕方がない。この落ち着きは何なのかと。
その力。
その聖なる力というのはすごいものなんです。人類に幸福を与えたんです。それで、「何か、説法でもできますか」と聞いたら、「これなら憶えていますよ」と、それを教えて、帰っちゃったんです。もっと聞きたければわたしの師匠に聞いてください、と。
子供がこれだったら、師匠は何者かと。
でしょ? それはかなりの、巨大な人物で、ずいぶん軽々と仏教徒全部教えてあげたんです。だから、こころが整理整頓されていると、在家の王様が、ほとんど仏教を学んだんです。アショーカ王の碑文は未だにありますよ。そちらにものすごく難しい経典を引用したり、お坊さんたちにもしっかり教えました。お坊さんたちしっかりしてください、この経典を読んでください、とかね。
だから、彼の言葉ほど、政治家として優れた言葉を語ったものはありません。
いまだにいないんです。「王は国民の父親である。親父である。国民はわが子であって、人間だけじゃない、動植物全部、王が責任を持って守らなくてはいけない」と自分で特別に、仏教的な政治論を書いて、その彼のおかげで仏教が世界宗教になったんです。
わたしが言いたいポイントはね、本当に仏法僧に帰依しているならば、こころが安らぎに達するはずなんです。
変な神秘的な顔とか、暗い顔とか、何にもなくなっちゃって、ちっちゃな子供みたいな感じで、その顔に戻るんです。なんのことなく安らぎを感じて、まあ、子供はハチャメチャですけど、それでも楽しいんですよ、子供がいると。大人で、こころの余計なことが消えたら、どれほどすごいかと。
どうしてもわれわれは、ブッダにアクセスする場合は、何か間違った固定概念を持って、そのフォーマットに合わせるんですよ。
お釈迦様の教えは真理だから、やってみるとそれなりに結果が見えるんだけど、途中で曲げてしまいます。フォーマットのせいで。
わたしが一番いやなのはそれなんですね。
能力もあるし頑張ってもいるし、冥想実践もするし、でも進まない。いくらか進んでも、曲がっちゃう。で、暗くなるんですね。(曲がらなければ)それはないんですよ。
ですから、幸福になりたければ、一切の迷信を捨てて、固定概念もすべて捨てて、新たに理解しなくちゃいけないんじゃないかなと思いますね。
そこはちょっと難しいポイントですから、俗っぽい話に戻ります。
(ご利益の法要 - 新年法要2016(3)に続きます)
<スマナサーラ長老-新年祝福法要@マーヤーデーヴィー精舎 2016.01.17
https://www.youtube.com/watch?v=lRWqbF9hFBs より書きました>
*1:参考外部サイト:アショーカ王が子供の阿羅漢に出会ったエピソード http://www.j-theravada.net/kogi/kogi77.html