(前回 - マハーカッサパ尊者が治癒した理由 - 新年法要2016(13)から続きます)
だから一般人には理解できない世界なんです。
神秘的な働きは一切ないんです。執着を何とかして抑えてください、なんです。それには何とかからくりをやるんです。お寺の法要っていうのはかなり派手にやります。信者さんからやってください、と。だから何とかして、自分がご飯を食べようと思ったお金でも、「いいや、ご飯を食べなくてもお布施する」とお布施するんです。
それを、日本人は文句を言う。
「ミャンマーは貧しいのに、なんでお寺ではこんな派手な祭りをやっていますか?」。タイでは一般人がすごく苦労しているのに、お寺では派手にお金を使って法要をやっているんですね。それが正しいんです。存在欲を捨てること。
テレビで、ある祭りを特集していました。
サンバのパレードみたいな感じなんです。その中で一人の女性が、派手な衣装で、派手な音楽で踊りまくる。その彼女の後ろに、トラックで、冷蔵庫やら高価なものがいっぱい積まれている。それを全部一つのお寺に寄付しようとしてる。
それで、「どうしてあなたは派手な格好で、踊っているのですか?」と聞くと、「楽しいんです」と。
この人は水商売をやっている人なんです。
「わたしはこの一年間、夜寝ないで仕事をしました。店をやっていました。この店で結構収入がありました。それを貯めて、今日全部使って、品物を買ってお布施します。自分の持ち分はゼロ」
「あなたには、お金が残っていないでしょう?」
「大丈夫、明日から仕事をしますから」
これをインタビュアーは理解できないんですね。
全部お布施するなんて、馬鹿じゃないかと。楽に生活できるくらいの財産を、パッと出す。そこで、彼女には徳があるんです。存在欲を捨てているんです。「わたしが生きなくちゃ」ということは捨てて、「もういいや、明日どうなっても」と。
あの存在欲を捨てることで、ものすごく幸せで幸福になるんです。
自我を捨てる。「自分のこと? どうでもいいや、そんなものは」と。「明日? 仕事と食べるものがあったら」。伝統のある仏教の国々だから、そこまでこころが変えられますけど。
だからって、みんながそうじゃないんです。
占いをやっているお坊さんたちもいるんです。人間に宝くじの番号を教えたりとか。そうやると金が儲かるんです。
一度、マレーシアのお坊さんが言っていたんだけど、その方は追い出したんだと、タイのお坊さんたちを。祝福したり占ったりして、迷信深い人々からたくさんお金をもらうということをやっていた。そこで、そのマレーシアのお坊さんは、「あなたがやっていることは、仏教的に迷惑だ。仏教では違反だ。直ちに国に帰ってください」と追い出したんだと、わたしに言ったんです。
それが祝福の道ではないんです。
祝福の道は、存在欲を捨てるところにあります。だから、覚っていない人々には、何かからくりをやらないと。だから、法要を派手にやって、徹夜させて苦労させるんです。わが身がかわいくて仕方がない人には、できないんだからね。だからなんとか、自分のことはちょっと措いておきます、という気持ちにならなくちゃいけないんですね。そういうことで、功徳にはなります。
今日の話として、そのポイントを憶えてください。
善行為とは、執着を減らす行為である。執着は、「わたしが生きていきたい」というところにあらわれる。
(次回は最終回です
<スマナサーラ長老-新年祝福法要@マーヤーデーヴィー精舎 2016.01.17
https://www.youtube.com/watch?v=lRWqbF9hFBs より書きました>