(ヴィパッサナー実践がうまくいかないのは - 新年法要2016(10) から続きます)
今日はこれを憶えてください。
五戒であろうが、ほかの善行為であろうが、お布施であろうが、冥想であろうが、みなさまいろんな善行為を行っているでしょう? そのときに、ちょっとこころの中で、「これはわたしが『生きていきたい』という気持ちを抑えている行為だ」と感じてみる。
だって、盗んでお布施したらアウトでしょう。
正しいお布施というのは、自分が仕事をして得たお金をあげるんですね。そのお金は、自分が働いて得た、生きる権利としてのものなんです。そこで、「わたしが贅沢するよりは、そこはちょっと減らして、お布施しましょう」と執着を減らしたところが善行為になって幸福になる。
そこで、一般的に宗教でやっているものにご利益はないんです。
あれは存在欲を応援するものでしょう。それでもわたしも参加することがあって、そのときチェックするのは、祝福する人が、本気で相手が幸せになるようにと思っているかどうかなんです。その場合は、人の幸福を願うという善行為が起きているんです。なぜならば、われわれは、人の幸福どころか自分で生きることで精いっぱいだからね。
それでもたまにいるんですよ。
自分のことは措いておいて、あんた幸せになりなさいよという人が。その場合は、不幸にならないんです、そういう人々からの祝福は。それ以外は危険です。
(マハーカッサパ大尊者へのお見舞い - 新年法要2016(12)に続きます)
<スマナサーラ長老-新年祝福法要@マーヤーデーヴィー精舎 2016.01.17
https://www.youtube.com/watch?v=lRWqbF9hFBs より書きました>