前回
「信は必要です」というより、「信はもともとある」んです。
呼吸するような感じに。
それを正しく管理することは、われわれ個人の責任なんです。
われわれが言うのは、ちゃんとデータを調べて信頼すること。
だから、データを調べないで信じることは、amūlikā saddhā(アムーリカー・サッダー)根拠がない信仰 だと言っています。お釈迦様が言っているのは、ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティー・サッダー) 調べたところで可能性がある信 です。可能性の値が高ければ高いほどいいでしょう。
そこでわれわれは、データを調べて可能性の値を上げて、五十パーセント以上でなければ。可能性の値を上げて、九十パーセントにしても、残り十パーセントがあるでしょう。それでも当たり外れがあるんです。
医者をからかった話なんだけど、医者が「これはもう確実で、九十九パーセント大丈夫ですよ」
医者も百パーセント確実とは言いませんからね、学問的に。
そこでわたしが「その一パーセントに当たったらどうする?」と(笑)。
本当に当る人がいるんですよ。盲腸の手術なら九十九.九……パーセントの確率で成功するでしょう。それでも当たる人がいるんですよ。盲腸の手術でも失敗してしまうことがある。
それが信の弱みなんです。
値を上げても、百にはならないんです。ほんの一パーセントに当たることがある。そこを理解しておけばいいでしょう。
外国旅行する場合は、よく調べて、信頼できる会社を選んで。でも、飛行機がハイジャックされたり事故を起したりすることもありますよ。
そういうことは世の中にあることで、わたしたちのこころの中には信というエネルギーが確実に働いているんだと理解したほうがいい。
信がなければ何一つもできません。ご飯を食べるにも信が働いています。水を飲むときにも信が働いているんです。
(続きます
参考外部サイト:
パティパダー巻頭法話No.147 (2007年 5月)
http://www.j-theravada.net/howa/howa147.html
ブッダの語られた教えが真理か、ブッダが説く悟りの境地は真の幸福か、自分で立証してみなくてはならないのです。このやり方で、仏教徒は解脱に達するのです。というわけで、仏教の信は、âkâravatî saddhâ(理性に基づく信)です。Amûlikâ saddhâ(根拠のない信)ではありません。