前回
信(13)- 見たものは見ただけで、感じたものは感じただけで(バーヒヤが受けた“瞬間説法”)
それはお釈迦様が負けたケースですけど、負けたのに物の見事に結果を出したでしょう。
そのケースでも、「わたしは如来だから決まりは破りません」という頑固さもない。
わたしたちはいくらでも偉大なるブッダのエピソードを読める。神々と対話するわ、悪魔と対峙するわ、人びととしゃべるわ。
そういうことで、証拠に基づいて確率性を上げる。
さらに法を学んでみる。物の見事な事実だけしか語っていない。事実だったら、これをしたらこうなるのは当たり前と、確率性がさらに上がるんです。次に僧を調べる。いわゆる覚った人々が、どんな修行をしてどんな風に覚ったのかと調べられます。こういうことでこういう境地に達した、あるいはこういう……といくらでも証拠はあるんですね。
実例は無数にあるならば、ブッダに会った人が覚り達したんだから、実践しても五分五分ですね、というのはありえないでしょう。
これはやるしかない、という力になって、有学者として仏道を進むことができる。
有学者の五力のうち、まだ四つ残っていますけど、一つだけで時間が無くなりましたので……。
そういうことで、信と信仰は違います。
妄信というのは、いくらデータがあっても、自分の信仰は変えない。これが妄信です。
データがある場合はいくらか教えを変えたほうがいいんです。キリスト教はこれをやっています。この世界で恐ろしい組織でしたけど、科学が発展するたびに、自分たちで教えを直してきて、緩やかな組織になっています。まだまだ変えていないところもあるんだけど、今のローマ教皇はすごくいい人間で、他の宗教とも仲が良くて、スリランカにも来ましたけど、お寺に行って、ものすごく短い時間でしたけど。立派な人格者なんですね。
カトリック教のもとの教えからすれば、邪教なんて地獄に行くに決まっているんだと、そういうのはないんです今は。
だから、妄信というよりもデータが入り次第いくらか調整しているんですよ。
イスラム教は逆に、信仰を変えることは死刑。妄信ですね。今の現代でも、盗みをした人の手を着る、女に石を投げて処刑している。時代が変わったんだから、死刑でも他のやり方があるのにやらない。
裁判制度でも、女の証言は認めない。男が二人証言したらそれを採用して、正しいかどうかは調べない。どう見たってもおかしいでしょう。変えてくださいといったら、「神が決めた法律を変える権利はないんだよ」と言う。
そういうことで、妄信と、根拠のない信と、信仰をよく理解してください。
仏教はそれらをすべて捨てている。仏教は科学的に心理学的に、避けられない信ということで、信をすごく整理整頓して、安全に生きてください。
俗世間でも、人が約束した場合、約束が守られること、守られないこと、守らないことの三つがあるんだよと。そこに興奮して混乱して、人生をダメにする必要はないんです。
意図的に守らなかったのならそれは詐欺であって、詐欺として追及する。
家庭の中でも、信頼と言うのは当たり前じゃなくて、保証を取ったほうがいいんですよ。
子供があれほしい、これ欲しいという。勉強もしたくない。そこでお父さんお母さんが文章を書いてね、「これが欲しいので、これくらい勉強します、これくらいの点数をとれるようにします」と書いてハンコを押して、約束書を作る。契約書。それで子供に必要なものを上げればいいんじゃないですかね。おかしいことではないんです。
子供が車を乗る年齢になって、車を買いたいんだけどお金がない。
その場合でも、お父さんが契約書も書かずに子供にお金を融通するのはよくない。お父さんのお金だから返さなくてもいいや、ということになるでしょう。契約書を作って、お金をこういうふうに返しますよとかね。子供にしっかりとお金を返せるように教える。
そういうふうに、信を正しく使うと両者が成長するんですよ。
親の立場からすれば、そうやって、子供が約束を守る正直な人間に成長しますから、親はもうかっていますよ。
子供がちゃんと全額を払ったところで、「お前の金だから持って行け」と言うのは別に構いません。人格ができたんだから。
あるケースを聞いたんですけど、お母さんが頑張って息子を育てた。
それで息子はお母さんに働いたお金でいろいろとプレゼントをする。それを大事に思ってお母さんは使わないで取っておく。それは親の世界でね。お母さんが亡くなってみたら、息子が上げたお金を全部大事に息子のために置いてあったんですね。
あまりよくないんです、それは。
息子としてはお母さんが、自分が上げたお金で楽に生活していたほうが気持ちいいでしょう。何から何まで面倒見てあげる必要はないんです。信にはそれなりの程度があるんです。
そういうわけで、われわれは信というエネルギーを正しく使うことを学びましょう。
それはパワーにならないといけない。力にならなくちゃいけない。力になるのは、できるだけデータを調べて確率性の値を上げて、五十パーセントなら絶対やらないこと。さらに調べて五十を超えていかなければならない。
しかし、信というのは百パーセントにはならないんです。
それは憶えておいてください。高血圧の薬をもらったからと言って、血圧がきれいに正常に直りましたということはないんです。
高血圧だったら医者が推薦する薬を飲むしかないんです。それで治るかと言うと治らないんだけど、その薬でなんとかなりますね。
だから百パーセントの世界ではないんです。
われわれは信の世界で生きているんです。だから何一つも百じゃない。それはよく理解したほうがいいんです。
そうすると、どう生きるべきかという生きる方法を皆様に理解できると思います。
話は終了です。どうもありがとうございます。
(おわり)
最初から読む:信(1) - 修行者が育てるべき「有学の五力」
スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2016.4.30
https://www.youtube.com/watch?v=MEfigejxCSM(期間限定公開動画)を聞いて書きました。
関連外部サイト:
折々の法話 仏教徒は祈らない (ミャンマー、マハガンダーヨン僧院在住の僧侶キラサ (Ashin Kelâsa)師)
Q. 『彼らは3回、礼をしていますね。最初の1回はお釈迦さまに対してだと思うのですが、あとの2回は誰に対して礼をしているのですか』
仏教徒は、仏・法・僧の三宝に信を持っているんですね。もうおわかりだと思いますが、お釈迦さま(Buddha)は、世界中のすべての仏教徒の先生にあたります。『法』(Dhamma)とはお釈迦さまの教えのことで、普遍的な真理のことです。身体と心に現れては消えて行く現象のこともDhammaと呼びます。たとえば怒りもDhammaなんですね。どうしてかというと、それは誰にでも起こるものだからです。……
3つ目の宝は、お釈迦さまの弟子である僧侶たち(Sangha)です。彼らは、真理の道を歩くすべての者たちの手助けをします。