前回
それでもう一つ。
使ったということは、もう自分のものではないんですね。捨てることなんですね、もうちょっと考えれば。
使うとは、諦めて「もう使っちゃいましょう」と。それに対して、「もういい」んです。
千円を持って弁当を買おうとすると、五百円の弁当、七百円の弁当、八百円の弁当……、消費税がありますから千円ぴったりの弁当は買えないんですね。買える範囲で一番高いのは九百円程度で。
それでこの千円はもういいやと、執着が消えたら、なんの躊躇もなく九百円の弁当を買うでしょう? 千円のうちいくらか残しておいたほうがいいなぁ、と思ったら五百円の弁当を買う。
だから執着の程度で、千円に執着がなくなっちゃったら、九百円のより良い弁当を買うんですね。値段で決まるのは日本だけですけど、中身で決めてほしいんだけど、日本文化では、値段が高ければ物もいいというふうに決まっているでしょう。だからその論理で行きます。
五百円の弁当よりは九百円の弁当のほうがいい弁当で、おいしいのだとする。本当のことを聞かないでください、わたしは調べたことがありますからね(笑)。
とにかく、そうすると、自分が千円に対する執着を捨てちゃったんです。執着を捨てたところで、それにふさわしい幸福を得ている。
だから、幸せになりたければ、物は使うことなんです。
これは心理学的にお釈迦様が説かれていることで、物惜しみというのは病気なんですね。
「幸福にさようなら」なんです。それを強調するために、いっぱいストーリーまで作っている。
経典で、すごい億万長者がいて、友達が家に来ると財産を見られてしまうから、家に友達を呼ばない。
自分が豪華な馬車に乗っちゃうと、バレちゃいますね、金があるっていうことが。だから、牛が引っ張る荷車で行く。労働者みたいに。自分が金持ちだと誰にもバレんぞとかね。かわいそうでしょ?
そういう人が死んじゃうと、王様がその人の財産を全部持って行っちゃうんです。
こういう人は当然結婚しないでしょう。結婚したら相手にお金がとられますよと。服やらアクセサリーやら、キリがなくちゃう。だからああいうケチな人は、物惜しみの人は、結婚さえしない。死んじゃったら全部財産が政府のものになるという。自分で使わずに。
だから、それは精神的な病気。
物を使っちゃう。使った方が幸せなんです。
それで物にしても、食べ物だけじゃなくて、使用期限、賞味期限がありますよ。
例えば、三十歳で一千万円の貯金がある。一方で、八十歳で五千万円の貯金がある。
どちらが幸せ? 三十歳のほうが幸せでしょう。使用期限中なんです。八十歳の五千万は、もう使用期限が切れかかっているんです。
そういうふうに理性で考えなければいけないんですよ。
皆様のお化粧品にしたっても同じことですよ。大量に買いまくっちゃってもね。十年分の化粧品を買いましたと。でも、当面使う分だけにしてください。なぜならば、使用期限がありますよ。いつでも同じ化粧をつけられるわけじゃないんですね。そういうわけで、すべての物事に、使用期限、賞味期限のようなものがある。
そのなかで使わないと。
(続きます
関西月例冥想会 2016.6.19
https://www.youtube.com/watch?v=_HKuPEM2Ze0 を聞いて書きました。
参考外部サイト:パーリ語仏教用語集 『AKUSALA−CETASKA:不善心所』
《怒りのグループ》
macchariya (マッチャリヤ:慳)⇒物惜しみ。自分のものを分け与えるのはイヤだという怒り
嫉妬と反対に、自分にあるものによって生じる怒りの心所がマッチャリヤです。
全く社会的な貢献をしようとしない。自分の知識を人に教えようとしない。熱心に修行をしている人が、他の人も修行をしようとしたらおもしろくない。それらはすべてマッチャリヤです。
嫉妬(イッサー)と慳(マッチャリヤ)は、外から見るとどちらなのかわからないときもあります。たとえば、誰かが「あの人はすばらしい人ですね」とほめるのを聞いて、おもしろくない暗い心が生じたとします。他人の優れたところをねたんでいれば嫉妬で、自分の優れたところにケチをつけられたように感じているならば慳です。
自分の心を細やかに見て、これは嫉妬だ、これは慳だ、と確認します。人は自分の悪いところを隠そう隠そうとします。修行をする人は、正直に自分を明確に見ていくことが大切です。