ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

介護される辛さ - 親の介護が辛くてしようがない(5)

前回

善行為というのはエゴを捨てること - 親の介護が辛くてしようがない(4)

  

ある神父さんが言った言葉なんですけど、慈しみをあらゆる生命に対して実行しようと思ったら、自分が死ぬ覚悟でやらなくちゃいけない。

 

わたしは、素晴らしい言葉だなと。

自分のことをかわいがったりすると、他人の面倒をみることができなくなっちゃうんです。他人を慈しむことができなくなっちゃう。

 

あの神父さんが、仏教を学んでいる人ですけど、キリスト教の「愛」というのを正しく直しているんですね。教会で言っている「愛」じゃないんです。あの人が言っている「愛」は。献身的に何も期待しないで、献身的に自分を投げ捨てることなんです。

 

ですから、親でなくても、どんな生命でも困っているときは、わがままを言わないで、嫌だと思わないで、助けることで、自分の自我が減っていくんですね。それがものすごく徳になるんです。

 

お母さんがわがままだから腹が立っている。いいことを自分が言っているのに、身体が弱い人は認めないとかね。嫌だ、ダメだ、と言ったり。自分がお世話しているのに、いつでも怒られっぱなしで、一言もありがとうと言われない、というケースもあります。

 

でもわれわれは、介護する側からしてみると、そこは修行だと思って、「ありがとう」と言わなくても結構、わたしは面倒をみますと。

 

身体が弱っている人が、自分の弱みで薬をかけちゃって、人間性も失って動物のような状態になっているんですね。だからやっぱり、憐れんでみなればあかんでしょう?

本人には自分の好き勝手に手足を動かせないわ、好き勝手なことが何もできないわ、もう大変な状態なんです。それだったら、刑務所にいることは天国でしょう? それでも自分自身で生きているんだから。

 

これがベッドの上でなにもできない。

喉が渇いても何もできない。誰か飲ませてあげないと。苦しいんですよ。

介護する人は、水を飲ませなければと言って、水を飲ませるかも。でも本人がそのとき喉が渇いていない可能性もありますね。介護する人は、一日決められた量を飲ませなくてはいけない。介護される側は飲みたくない、となるとこれでトラブっちゃうんですね。

 

一日これくらいご飯を食べなくちゃいけないと、無理矢理食べさせると、これでけんかになっちゃうんですね。なぜならば、介護される側に自由が何もない。あの苦しみをちょっと想像してください。どれほどのものかと。

 

われわれは元気なときでも、毎日これくらい食べなくてはあかん、ということはないでしょう? 好き勝手に、食べ過ぎになったり食べなかったり、勝手にできるのに。わがままでね。

今日は面倒くさいからこれを食べるぞ、とか。今日は遅刻しそうだから朝ごはんは後で食べるぞ、とか。そういうふうに好き勝手にできるのに。それを介護される側はできなくなっている。

 

介護施設では、向こうは仕事だから、決まっている時間に無理矢理食べさせる。それでものすごいケンカになったり、いじめになったり大変ですよ。

介護される側は人間として形だけで、人間の特権が何一つ使えない。

 

動物だったら、身体が動かなくなったら二、三日で死にますよ。動物の世界で介護はないからね。あの巨体の象さんにしても、倒れるんですね。倒れたらもう終わり。群れの他の象さんも、本人も、終わり、ということにするんです。だって象は一日四十キロくらい歩くし、すごく大量にエサを食べなくてはいけない。倒れて立てなくなったら。

 

人間はそうじゃない。歩けなくなったら、車いすを使ったりする。いろいろ頑張って生き延びてはいるんです。それが一方的に幸せじゃなくて、ツケがありますよ。

 

そういうわけで、介護される羽目になっているのはすごく苦しいと思いますよ。人間ですけど、人間の得点はすべてチャラ、使えない。

 

介護するわたしよりは介護される人がいかに大変か。自分は体力的に疲れているだけなんですね。そういうふうに、三番目に相手のことは、相手がどんな暴言を吐いても憐れみの気持ちを持つ。

 

介護している人が侮辱されて、「なんでこんなことを言うの。ここまでやっているのに。このおばあさんは性格が悪い」と思ったら、自我なんです。

「たいへんですね、相当気持ちが悪くなっているんだ。でも直す方法がなくて、本人が。すごく苦しんでいるんだ」という憐れみの気持ちになると、自分がやすらぎます。

(続きます

菩薩も親を介護した - 親の介護が辛くてしようがない(6)

 

東京法話と実践会 2016.07.24

http://www.ustream.tv/recorded/89905720 (期間限定公開)を聞いて書きました。

Gaspard in the Hospital (The Misadventures of Gaspard and Lisa)

 

参考外部サイト:

パーリ語仏教用語集 『AKUSALA−CETASKA:不善心所』

『AKUSALA-CETASIKA(アクサラチェータシカ):不善心所』(4)《その他の不善心所》

《その他の不善心所》3つ

  1. thîna (ティーナ:昏沈)⇒心の力を弱くするはたらき

怒りや欲で仕事をすると、どんどん疲れてエネルギーがなくなってきます。「ああイヤだな」と思ったとたんに、昏沈が出て、ストレスがたまってきます。だからといって「不貪不瞋不痴でがんばるんだ」と無理矢理に自分に言い聞かせても意味がありません。そういう大げさなことではなく、まず自分の心に気づくことです。

たとえばお年寄りの介護をしていて疲れたとします。そのときに「私は疲れてイヤになってやめたくなっている…ということは、怒りや無知の心があったのかな」と自分の心を観ます。

仕事をしていて元気になって気持ちよくやる気が出たら、「不貪不瞋不痴でがんばれた」と気づくようにします。そうしていくと自然にいい方向に進めるようになります。