<前回 渇愛をなくしたならば - ウェーサーカ祭2007(6)>
わたしたちは、自分が希望した仕事が見つかりましたとかね、結婚相手が見つかった、妊娠した、子供が生まれた、といろいろなことで幸福を感じるんです。
それは確かに人間が、その瞬間のやけどの痛みが消えちゃったんだからね。
でも子供がいることは、ものすごく苦しくて大変ですよ。しかし、赤ちゃんの泣き声を聞いたとたん、その苦しみがなくなって、楽しくなるんです。
それは確かに楽しいんです。
それは否定していないんです。自分が気に入っている人と一緒になることができれば、本当に楽しいんです。
だから日常生活の中でそうした楽しみはありまして、われわれはそればっかり探していますけど、それはあまりにも小さすぎだよと。
しかも小さすぎなだけではなくて、それで解決しないんです。
苦しみがそれでもあるんです。
子供が生まれると確かに楽しいんだけど、苦しみが消えたわけじゃないんです。
次にもう一つ何かやらなくちゃいけないんですね、幸福になるために。
さらに次にもう一つやらなくちゃいけない。
レストランで食べることは気分がいいんです。
おいしいかどうか措いておいても。確かに気分がいい。
あれこれと無知な話をくだらない話をしたりして、噂話ばっかりしながらご飯を食べる。それで帰る。気分がいいんです。「楽しかった」と。
しかしそれで終わらないんです。
それはあっという間の幸福で、消えてしまう。
全身やけどの人が、ちょっと指にだけでも冷たいものを塗ってもらえば、気分がいいでしょう。しかし、他の部分はまだ痛いんです。だからあっちに塗ったりこっちに塗ったりするんですけど、足に塗っている間に、手のほうが痛くなってくるんです。
問題は、われわれは体中に塗る薬は持っていないんですよ。
皆さんも、世の中においしいものはたくさんあるんだけど、すべては得られませんね。
「こうなりたい、ああなりたい」「あれが欲しい、これが欲しい」と希望するものはたくさんあります。
が、実際に獲得するのはほんのわずかなんです。
全身やけどなんですけど、指に塗る程度のクリームしかもらっていないんですね。
そこでどうしようかと。
それが、われわれの普通の生き方なんです。
だから渇愛というものをなくしちゃえば、こころにあるこの問題をなくしちゃえば、その幸福は、一切の幸福とは比較にならないんだよと。
だから仏道にもうちょっと自信を持って頑張ったほうがいいんじゃないかなと思います。
高級かばんを買うこととか、高級な服を買って楽しいということとは比較にならないんだと。ブッダの道を歩んだら感じる楽しみは。
そういうふうに思った方がいいですから、
お釈迦様が究極的な純粋な、何も汚れが入っていない、何も副作用が入っていない幸福を、われわれに教えています。
(続きます
1964年東京オリンピック - ウェーサーカ祭2007(8))
ウェーサーカ法話(2007年5月12日)アルボムッレ・スマナサーラ長老
(https://www.youtube.com/watch?v=sQT_7Z4XbwA を聞いて書きました)
参考外部サイト:
仏教講義 27.なぜ苦は偉大なる真理なのか (4)無価値を知って「楽」に生きる
「自分は尊い」という魔の言葉
それからもう一つ私たちが認めていない「ドゥッカ」の側面があります。
生きているかぎり誰にでも苦しみやストレスがあります。なぜ苦しむかといいますと、それは生きることに価値を入れているからです。その証拠に、私たちは「生きることは尊い」と思っているのではないでしょうか。
「尊い」ということはつまり「自分に価値を入れている」ということです。自分に価値を入れれば、ほかの何を差しおいてでも、どんな手段を使ってでも、自分が生き延びようとします。そこから奪い合いや争い、戦争などが生まれてくるのです。