ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

自己啓発本について

質問

「世の中には、『いいことを想像すれば幸せになれる』という本がたくさん出回っていますけど、仏教ではその『想像すること』も妄想になるのでやめるべきなのでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

これは一概に答えられないんですよ。

それぞれの本を読んで何を言っているのかと中身を見ないとね。

 

「この方法をやったら三か月間で億万長者になるんだ」とか、「社長になれるんだ」というような自己啓発は、欲をかき回しているでしょう? 

欲をかき回すと不幸になるんですね。

 

ですが、物事を明るく見るということはまんざら悪くないんですね。

だからと言って、楽観主義になり過ぎちゃうと、バカになってしまうんですね。だからそこらへんは、程度を一人一人が気をつけなくちゃいけないんです。

悲観的にみることは決してよくないんだけど。

 

仏教的に言えるのは、やっぱり「自分で自分の幸せを作ってください」ということです。

 

楽観主義でも悲観主義でもない。

都合が悪いことは都合が悪いんですよ。いくら無理矢理、楽観主義になろうかなと思っても、これはできないんですね。

 

たとえば「病気になったら楽観主義になってください」というのはちょっとおかしいでしょう。

病気になったら嫌でしょう。

人からプレゼントをもらうことは楽しいし、病気になることは嫌でしょうしね。

 

悲観主義、楽観主義じゃなくて、その都度、その都度の問題をどう乗り越えるのかと。

どう進めるのか、と。

 

たとえば病気になった、とする。

嫌ですね。嫌ですけど、この期間で、わたしは何かを学ばなくちゃいけない。「嫌だ、嫌だ」とわがままをいうことを、ちょっとコントロールしたらどうですか。

 

あるいは、病気だから人のお世話になっている。

この機会に、「ありがたい」という気持ちを学んでみたらどうですか、と。そういうチャンスだと。

 

自分が病気で倒れているときは、お手上げ状態でしょう、自分は。看護婦さんや医者は一生懸命頑張ってくれているんですね。親戚でもなんでもないのに。「この人たちはお金をもらって働いているんだから」という態度は汚いでしょう。看護婦さんも医者も、「これで儲けてやるぞ」とは思っていない、治療しているそのときは。全く思っていなくて、人助けをしているんです。

 

そのとき看護されるチャンスを生かして、人に感謝する気持ち、人を愛する気持ち、人にありがたいと素直に言える気持ちを修行してみる。

病院で一週間入院して帰るんだけど、病気が治っただけじゃなくて、こころが直ってもうちょっとマシな人間になっている。

 

「悲観主義か、楽観主義か」の二者択一はダメです。

あなたはこの場面で何を学ぶのか。学んだことが、どれくらい人格向上になったのか、ということですよ。答えは。

 

ということで、世の中にある「イメージで成功する」という本がすべてダメとは、現時点ではわかりません。

たまにそういう本を見たとき、「ダメだこりゃ」ということはあります(笑)。人の欲をかき回して、人の傲慢をかき回して、とかね。

 

たとえば、昔見た本で、「この本を読めば上手にしゃべれるようになる」というものがありました。

以前、わたしのところに相談に来たある若者が、口下手ですっごく悩んでいたんですね。わたしが考えたのは、「口下手をなおしたってもね、おかしいでしょう」と。その人は友達がベラベラとしゃべっているので、そういう人になりたい、と。

 

なんで他人になりたがるんですか?

時々いるんですよ、犬が人間になりたがっている。猫が自分も人間だと勘違いすることもある。犬や猫が人間になることはありえない話でしょう。

 

芸能人でいるでしょう、男なのに女よりもすっごいきれいにお化粧して、洋服を着て、これを極めているんですね、女装することを。バカじゃないんですかね、他人になりすますことは。

 

それでこころも変になっちゃうでしょう。

ずっとカラクリをして、ややこしい生き方をしなくちゃいかんでしょう。

 

口下手なら、そこをどう生かすか? ということでしょう。

わたしのアドバイスは「あなたは聞いてあげてください。よく聞いて、人の気持ちを理解できる人間になってください。そうすればいくらでも友達ができますよ」。

 

うるさくてよくしゃべる人は多いけれど、誰も聞いていないでしょう。

だから、一貫して口達者が楽観的とは言えませんよ。

 

自分が他人になる必要はないんですね。

自分の長所も短所もうまく使う。うまく、自分の幸福のために使う。

 

目が見えない人は、かなり音に敏感になるでしょう。

それで脳がすごく開発されるでしょう。楽譜は見えない。楽譜は点字ですね。しかし、点字を読みながら演奏はできません。そこで自分のハンディをうまく使って、いろいろな曲を演奏してみせる。そこで、自分を表現することもできる。

 

たとえば、ショパンの曲を聴いて、自分が感じた世界、インスピレーションした世界を表すことができる。楽譜の世界を通さずに。

そこで、「目が見えなくてもよかったね」ということができるでしょう。

 

そういう見方をするなら、どうやったら世の中を悲観的にみられる?

 

パラリンピックにしても、事故などで体に障害を持った人が活躍するでしょう。たとえばバスケットボール。

もしその人が健常者だったら、世界的なバスケットボールの大会に出られたかどうか。国を代表する選手になったかどうか……。

 

世の中に起きる出来事は、善でも悪でもないんです。

汝は何を学ぶのか? という自分に対する宿題なんです。

(終わり)

 

スマナサーラ長老法話 関西定例冥想会 2016.11.13

https://www.youtube.com/watch?v=FKgZ8djfv40&feature=youtu.be

を聞いて書きました》 

 

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【アンケート】こころに残った法話は?

 

昨日は、ntaxさんにお答えを書いていただきました。ありがとうございます。

こちらの法話を選ばれましたかー👏

 

「自我をなくす準備」
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/12/10/050000

 

これもほんと、しみじみとビックリしますよね。

あの世界が、日本語になって構築されていくさまを、圧倒されながら書き取っていたことを思いだしました。

 

皆さまにとっての「この法話!」も、お寄せ下さい。

こちらのコメント欄からどうぞ。

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