まず、悟りとか、解脱とかは置いておきましょう。
昨日お話したこと(前記事:「ダルさを脱皮していつもピカピカに-「実感すること」が脳を変える」)をもう少し説明します。
現代人と言うのはものすごく俗っぽくて、日常を幸せに生きることしか興味ないので、そのレベルに下げて考えてみましょう。
「唯脳論者」たちから言わせると、人間の不幸の原因は脳にあります。
脳の構成があまりにも原始的で、発展していないのですね。だからいつでも恐怖感を感じる。ご褒美より罰で動きます。結局は存在欲だけで。
今の脳でできている回路は不幸を作ります。自信が無い、ストレスが多い、喜べない。喜んだら「まずいな、これは。もしかすると明日バチがあたるかもしれません」と自分で思っちゃう。受験勉強するときでも、恐怖感があったら動くのです。とにかく脅さなくてはいけない。
そこで色々な脅しを、社会が、お母さんが作ってあげる。お父さんも、お母さんも、脅す脅す。同じ仲間同士でもライバル意識を作って、「あいつに負けたら…」とか。自分が受かりたいじゃないんですよ。「あいつに負けたくない」んですよ。
それだけのことで受験勉強をする。だから苦しいでしょう。
しかしライバルが不合格になると、今度は自分の合格を素直に喜べなくなるのです。
意図的に脳がバチでしか動きませんから、友達を敵に仕立て上げただけなのです。
自分が合格するぞ、とポジティブ的に考えられなかった。それで合格したら素直に喜べるのに。
そういうわけで、脳にはいろいろトラブルがあるので、新しいプログラムを作らなければいけません。まるっきり新しいプログラムを、今までのプログラムに上書きしてください。
「生き続けることは成り立たない」と上書きします。上書きは、現実を知っている大脳皮質でやっています。そちらのニューロンを刺激させなくてはいけません。
そこで恐怖感が消えて、幸せにあふれるようになります。
脳が体の機能をしっかり管理するようになります。心臓発作を起こさないための食事療法など、考える必要がありません。脳がちゃんと心臓を動かします。食べすぎも起こりません。脳が幸せを感じているので、適量で満腹になります。
この「上書き」を皆様方は早く始めなければなりません。
この早い方法を、昨日、説明しました。
何年も何年も瞑想して、やっと少しわかったというのでは、効率が低すぎます。お釈迦様の時代では、人々はすぐ悟ったんだから。
今のお坊さんたちは、このノウハウを、テクノロジーを忘れています。解脱ではなくて、宗教を作っちゃったんだからね。「忙しいんですよ、お寺の用事をすることで、法事することで、お祭りすることで」と。
お釈迦様がずーっと言っている言葉があります。「サッチカッター」、「経験しなさい」と言う意味です。ほんの少しでいいのだから、「体験しなさい」と。
体験することは、脳にとっては新しいデータになります。マンネリの生き方じゃないのです。仕事する、食事するなど、日常活動とは異なる、すごい体感になるのです。
体験すると言うことは、そんなに難しいことじゃない。
慈悲の瞑想があります。
ゆっくりと焦らないで、のんびりと「私は幸せでありますように」と一回だけ言ってみて、感じてみるんです。「やっぱり私は幸せだ。大した問題はないんだ。不幸ということもない」と。幸福の中にたった一回だけ不幸があっただけで、ネガティブのバイアスがかかる。10年間仕事して、一回だけ失敗した、それだけで不幸に陥る。客観的に見れば、幸福三昧で生きているはずです。慈悲の瞑想で「あえて意図的に」幸福を感じるのです。
たった一個の不幸を見つけてそこに縛られるのをやめること。
次の文章「私の悩み苦しみがなくなりますように」。
「あれ? 悩み苦しみがあるんだっけ?」よく考えたらないでしょう? 原始脳は短所しか見つけません。未だに森の中で暮らしていた動物の脳です。現代は冷暖房の中で暮らしているのに、おかしいでしょう? 動物生活じゃないんだから、今は。動物生活では寝ているとクマに襲われる可能性がありました。極端な恐怖の中で生きていた。その脳が、安全な社会の今でもそのまんま。
「でも私の体があまり調子良くない」と思ったりする。
しかしあなたの年齢は? 67才なのに大病も無く、ちょこちょこと体力が減っただけだったりする。
何か浮かんでも、その場で「なんだ、このちっぽけなことで。もっと現実を見ようよ」と。自分が悩み苦しみのない人間であることを、脳が理解しなくちゃ。そうやって心に自分が幸せであることをフィードバックする。
慈悲の瞑想の三番目。「私の願い事が叶えられますように」と。
「願い事はかないっこないねぇ」とすぐ思っちゃう。「願い事は一つもかなってない」と思う。それ勘違いなんですよ。願い事を思い浮かんだ瞬間で「こんなのかないっこない」と自分で思っていたんだから。しかしよくよく見ると、願い事がかなって成功してきたから今生きているんでしょう。
味噌汁を作ろうと思って作ると、うまく出来上がるでしょ。これ成功でしょ。なんで喜ばないのですか? 「こんなの毎日作ってるんだから、そりゃうまくできますよ」と、なんで成功を消すんですかね。ちゃんとみれば、毎日成功でしょう。毎日願い事が叶っているでしょう。
今日の昼ご飯、何でもいいんですよ、おにぎり一個でも。食べられたら大成功でしょう。願いがかなっているでしょう。昼だから何か食べなくちゃ、と思っていたんだから。
そういうわけで、我々は絶えず願い事を叶えつつ生きています。脳が極端にあほだから、このことを知らないだけ。
感じるんです。「ああ、自分の願い事は結構かなっているんだ」と。そこで喜びを感じます。
難しいのは4行目です。「悟りの光があらわれますように」
それだったら頑張ってやるしかないでしょう。自分が一歩一歩進んでいるんだから、「まあOK!」と決めちゃえば終わりでしょう。
そういう極端な安心感を脳にインプットする。無理でも強引でもなく、それこそが事実なんです。私たちが勘違いしているだけ。
こういう風に4行分を唱え終わると、もしかしたら5分、10分かかっているかも。
「私は幸せでありますように」と言って、それを感じる。(ジー…)
「私の悩み苦しみがなくなりますように」と言って、また感じる。(ジー…)
「私の願い事が叶えられますように」と言ったら、また感じる。(ジー…)
「私に悟りの光があらわれますように」と言って、感じてみる。(ジー…)
これが、本当の瞑想になります。
これをやり続けると、原始脳には選択の余地なく、新しく上書きされるしかありません。
事実に基づいて上書きされます。これが体感プログラムです。
慈悲の瞑想はこのあとも続きますね。
「親しい人々も幸せでありますように」と言って、体感します。「私は本気ですか?」と。「本気で親しい人々の幸せを願ってる?」と自分に聞いてみる。「あ、本気だ」
自分が本気であることを感じるでしょ。それを脳にフィードバックしてあげます。「自分は、自分のことだけじゃないんだ。人のことも心配できる人格者だ」と自覚します。
その後、「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのはちょっと難しいね。
「生きとし生けるもの」を普通の人はすべて認識できません。
そこで例えば、青森の森の中のクマさんを、「あいつら死んでもいいや」とあなたは思っている? 日光のサルたちを、死んだ方がいいと思ってる? 思ってないんです。自分に関係ないしね。
人間に迷惑になると嫌なんだけど、もともと人間がエサを上げたからでしょ。かわいいと思ってエサを上げたけど、これがアダになっちゃっただけで。それでサルを憎めますか?というと憎めない。サルは山のものを食べていて、そこへ人間からおせんべいやケーキをもらって食べちゃうとね。
人間も同じことでしょ。おにぎりを食べようとしていたところへ、うな重が来たら? 「私はおにぎり食べます」と言う人はいないでしょ。
私たちもサルと同じことで、贅沢できるんだったら贅沢しますよ。だから、日光のサルたちは決して悪いことをやっていません。
そういうことを考えて、やっぱり幸せでありますようにと思う。
日光のサルという例を出しちゃうと、「生きとし生けるもの(すべて)」ということになりませんが、例を出しながらでも「体感する」んですよ。「自分は生命が幸せに生きてほしい人間だ」と。続けて残りもやってみます。
普通の慈悲の瞑想と体感瞑想ではちょっとやり方が違います。
私はこの「体感瞑想」でやった方が、すごく早いと思いますよ。
これをあまり推薦しない理由もいろいろあります。自己管理できない人々にどうなるかとわからない危険性も無いわけでもないんだけど、究極に能率的に早く結果を出したければこのやり方だと思います。
「体感する」。悟りもひとつの「体感」なんです。「苦・無常・無我」という真理は体感するものです。
体感することで、今までなかった脳のプログラムを作る。脳が新しいシナプスを作ってワイヤリングするんだと。
そういう風に頑張った方が結果が早い。お釈迦様がおっしゃった幸福は目の前で実現します。
関西月例冥想会 2013.01.20 1/1 - YouTube
1:10:00~最後までメモしました。