前回
ブッダに指令することは誰にも不可能です。
インドの南のほうにある行者がいて、六十年間くらい長い間、木の皮を着て暮らしていました。
遭難した人で、ある島に流れ着いた。そこで木の皮をまとって暮らしていた。一般の人々がそれを見つけて、「これは修行者でしょう、それなら助けてあげなくちゃ」と食べ物とか住むところを作ってあげて面倒見ていた。長い間その人は、そうやって生計を立てていた。この人は過去世で長い間梵天にいたんですね。だからこころに欲が生まれないんです。劫年単位で汚れ・煩悩のない世界にいたから、欲が生まれません。それで食べ物も住むところも用意してもらったし。
一般人がこの人のことを「阿羅漢です」と言い始める。
この人は「人々が自分のことを尊敬して拝んでも、わたしにはどうったこともない。欲もないし怒りもないし。もしかすると阿羅漢ではないんですかね、わたしは」と。これは本人がもっていた証拠からで、現代人みたいな病気じゃないんです。「わたしが神だ」という精神的な病気があるでしょう。
それではないんです。その人はデータを見た。もしかすると自分は阿羅漢かも、と。
実はその人の友達の梵天が、上からずっとチェックしていてね。人間の世界はあっという間ですが、梵天は劫単位で生活しています。「知っている友達が、とんでもない間違いをおこしちゃった」と。
そこでその梵天が降りてきて、
「わたしはあなたの昔の友達です。あなたね、自分のことを阿羅漢だと思ったでしょ? それ勘違いです。あなたは阿羅漢ではないだけではなくて、阿羅漢になる方法さえも知らないんだ」と。
ものすごいダメージですね。
しかし言われたこの人はものすごく正直なんです。
「ああ、そうですか。ではお願いします、阿羅漢になる道を教えてください」
「わたしは知りません。阿羅漢がインドの北にいるんです。ブッダが人間でいるんです。その人に聞いてください」
そう言って梵天が消えちゃったんです。
その瞬間に、六十年間住んでいた島を捨て、信者さんを捨て、旅に出たんです。
どれほど覚りに達したいという気持ちがあったのかと。
どれほど正直かと言うと。
それから歩いて、歩いて。
どれほど歩いたのかは記録がありませんが、お釈迦様のいる祇園精舎に入りました。そうしたら、お釈迦様はいない。
「ブッダはどこにいるんでしょうか?」とそこにいた人に聞いた。
「今は托鉢に出ています。あなたはどうぞ、そこに休んでください。
托鉢が終わったら戻りますから、その後会えますよ」
そこにいた人々はすごく丁寧でね、仏教はいつでもオープンな場所だから。
「あなた誰ですか」というのはないんですからね。
そのひとは、
「どこに行ったんですか?」と。
「そのうち戻りますから」
「いえ、行った地方を教えてください」
そのひとは道を尋ねながらそちらに行きました。
お釈迦様はそのときまだ、一日分の托鉢は終えていなかった。途中でした。
その人はお釈迦様を見つけてすぐ礼をして、
「わたしに解脱の道を教えてください」
あまりにも大胆です。
「如来は、托鉢中は誰にも説法しません。それは変えられません」
「そう言わないでお願いします。わたしに解脱の道を教えて下さい」
「いえ、まだ托鉢中ですからね、しゃべりません。托鉢を終えて説法するときに、あなたも話を聞いてください」
「いえ、そんなことを言わないで教えてください」
するとやはり、お釈迦様の反論は「托鉢中だ」と。
この人は攻撃するんです。
「あのね、食べるということはいつでもできます。一食なくなったからと言ってどうったこともない。しかし人の命は、次の瞬間で死ぬか死なないかと誰にも保証できません。だから托鉢より先に真理を語ることが仕事だ」
と如来の決まりに攻撃したんです。それでお釈迦様が負けたんです。
だって事実ですから。
その人の名前はバーヒヤなんですけどね。
お釈迦様はピシッとその人の顔を見て、
「バーヒヤ、それなら、見るものは見るだけで、聞くものは聞くだけで、感じたものは感じただけでストップしなさい。そちらに行くなよ。そちらにいかなければ、こちらにもかかっていない。真ん中にいるわけでもないんだ。
それが解脱だ」
それでバーヒヤが覚ったんです。
仏教の歴史の中で短い、瞬間の説法で覚ったのはこの方だけなんです。
(次回が最終回です)
スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2016.4.30
https://www.youtube.com/watch?v=MEfigejxCSM(期間限定公開動画)より聞いて書きました。
関連外部サイト:
「バーヒヤ、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象に捕らわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」……