(前回
わたしたちが冥想してこころを清らかにしたいというところで、きっかけになるのは、物があるという実体論なんです。
これどうしようもないんですよ。眼に何か触れなきゃ見えないんですよ。触れたところで頭の中で、幻覚を作るんですね、見えたという。
見えたところで、「あ、これは有るんだ」と、花が見えたからあると思っちゃうんです。
すごく違いますよ。
花から反射する光が眼にぶつかっただけで、それはすぐに消えているんです。
光にはそんなに長い命がないんです。ぶつかったらそこで消えているんです。消えているんだけどその代わりに、こちらに電気信号が生まれているんです。光が電気信号になっちゃって、電気信号もたくさんまとめて脳に送ると、脳の中で変化が起こる。脳の中に起きた変化が「見えた」ということにする。
だから何が見えたのかは、知ったことじゃないんです。
そういうことで、わたしたち普通の人間の気持ちから言えば、聞こえたということは「有る音」なんです。物が有る、という錯覚に陥っているんです。
それも結局は無明の一つの仕事なんです。物が有る、と。
それで観察してもらうんです。
観察してください、思考をやめてくださいと。
思考はすべて幻覚ですから、やめられませんがやめようと頑張っちゃえと。
それで頑張って観察する。
何か見えたら、「花」と思わずに、「見える、見える」と観察する。
それで集中力が生まれてくると、見える、見えると言うほうが正しい、とわかる。
音の場合も、「音、音」と言いつつ、次に耳の観察をすると、耳に何か触れる、触れる、と感じますよ、集中力があったら。
耳に何か触れちゃう。何か感じるんですね。
耳元で何か感じる、感じる、と実況していくと、もう波長でブンブン、ブンブンと、触れて、触れて、触れて、という感覚を感じるんです。
「あ、音がないんだよ」
とわかる、そのとき初めて。
音じゃなくて、感覚だと。そこをまとめて一束にして音にしている。そこで煩悩が生まれるんだと。
そういうところで、いたるところに因果法則が働いています。
(次回は最終回です
スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
参考外部サイト:
大きい・小さい、高い・低い、美しい・醜い、上手・下手など、すべてのものは相対的に成り立っています。しかし私たちは相対的ということを知りませんから、何に対しても固定的、実体的に「有る」と錯覚し、わかったような気持ちでいるのです。